心の瞳 前篇

・ぬるい暴力

・モブ桂要素

・モブ銀描写(後篇の地の文に一瞬)

・小スカや緊縛(地の文)

 

・ある創作(伝承?)を一部もとにしています。

・ほんのりR-16くらいかもしれない。

 

 

 

 じいじいと蝉が鳴いている。

 

 最早掘っ立て小屋とでも呼んだ方が相応しかろう、古ぼけた長屋が当座の一人と一匹の住まいだった。ひと一人でいっぱいの狭い台所で、着流しにたすき掛けの男がくるくると働いている。独楽鼠のように労働に勤しんでいても、万年を生きた亀のようにそこに坐していても、エリザベスの主人は何かと絵になるうつくしい人だ。毛が落ちぬよう、結い紐で軽く纏めた髪が磨り硝子越しの陽光に艶めいて揺れた。

 

 戦いに明け暮れた傷だらけの手には、それでもどこか作り物めいた美しさがある。使い古された俎板の上で浅葱が細かく切り刻まれていく様子を、エリザベスは声もなく――まあ、もともと喋らない設定なのだけれど――見つめていた。蕎麦の上に散らす薬味を手際良く刻むのと同じように。無駄のない手つきで桂小太郎は人を斬る、と、そんなことをぼんやりと考えながら。

 

 話しかけようとして戸惑った。そうしてあちらから声を掛けられる。

 

「なんだ、エリザベス」

 

 少なくとも自分の前では口をきかないこの宇宙生物のことが、時折手に取るように桂には理解できた。常ならば高速で繰り出されるプラカードを、戸口に立つ彼がどうして出しあぐねているのかも。いいんだ、と一度口内で呟いてから唇を湿す。

 

「いいんだ、もう」

 

 願いにも似たそれを言葉にしてしまえば、心中で荒れ狂う不穏な感傷が少しずつ凪いでいくように思えた。そうやって自身を欺く、或いは洗脳するのをもう十年以上も桂は得意としていたから。氷水で締めた蕎麦をセイロに盛ってエリザベスに向き直れば、取るに足らない私事などすぐさま日常に埋没していく。

 

「アレだ、ちょっとした“ふぁんだめんたりずむ”に浸っていただけだ」

『……センチメンタリズム?』

「あ、そうそうそれそれ」

 

 さあ、食事にしよう。胸懐で殺されていくものの末期の叫びがこうして笑いに換えられて、桂小太郎は攘夷を志す一人のサムライに戻る。粗末な盆を二つ受け取りながら、エリザベスは密かに、ない眉根を寄せるのだった。

 

 

 

 

 

 

 裏切られた。そんな風に感じてなどいない。寧ろちらと思うのだって烏滸がましい。それは銀時自身がとうに理解していることだった。ただ、思いがけず昔馴染みとの再会を果たし更には夜を共にしたあとで、人知れず彼は頷いたのだ。物心ついてからその晩まで桂に懸想したことなど一度もなかったにも関わらず。こうして生まれたままの姿で熱を分け合うのが自然だ、なんて。

 

 一人きりの万事屋は広かった。もっと言ってしまえば、認めたくなかったけれど、寂しかった。だが執拗に桂のことを尋ねてくる神楽や事情の末端を察したような目で見つめてくる新八がいないことに、どこかで安堵してもいた。

 

「お前さぁ……今、どこにいんだよ……」

 

 傷つけることは容易かった。

 

 欠片ほどにそうする心算がなかったとしても。

 

 銀時は髪質も性質も大概ひねくれ切ってはいたが、真にするべきことをそのままにしておける性根の男ではない。会ってどう言葉をかけたらよいかとか、謝るべきなのかとか、だが謝罪など望まない桂にそれを言うのは自己満足ではないかとか、そもそも何を詫びるんだとか、この己の動揺こそがあの幼馴染を傷つけるのではないかとか、一刻ぐらいは悩みに悩んだかもしれないけれどそれだけだ。この関係も感情も断ち切れる訳がないのだから。

 

 とにかく会いたい、顔が見たい。話はそれからだ。

 

 そう銀時が腹を括ってから、既に一か月が経過した。梅雨明けの江戸は蒸すような暑さと日差しの強さで生き物の正気を削っていく。蝉の輪唱がうっとうしくて、銀時は時々叫び出しそうになる。

 

 これまで頻繁に顔を出していたアルバイト先、気に入りの喫茶や食事処から離れ、仮住まいの場所さえ捨てた桂の行方は杳として知れなかった。

 

 

 

 

 瓦を雨が打つ音が好きだった。夏の積乱雲が齎す夕立も秋の霖雨も冬の霙も桂は好きだが、中でも取り分け六月の梅雨を好ましく思っていた。

 

――お前が生まれて来てくれて、皆が嬉しくて泣いたからよ。

 

 いつだって雨音で始まる自身の特別な日を生家の母がこう言ったその朝から、桂はずっと雨が好きだった。雨に煙るまちが、声もなく濡れそぼる草花が、土の臭いを立ち上らせる道が。

 

 そこに優しくない思い出たちが混ざり込んでしまったのはいつのことだ。自分の黒髪は顔や首筋に纏わりつき、銀時の白い羽織は泥に塗れ、高杉の背の刀疵は固まらず血を零し続けた、初めての敗走の日だろうか。同門の血をたっぷりと吸った戦場の野原が、打ち付ける過分な水に鉄錆の臭いを撒き散らしたあの朝だろうか。或いは討ち死にした仲間の遺髪を届けて半狂乱に罵られた昼下がりかもしれないし、河原に整列させられて日が経った首が強い風雨に肌を持って行かれるのを見た夜半過ぎかもしれない。

 

 それとも、好色な狸どもの前でしどけなく足を開いて媚びたあのときからか。

 

“支援者”たちの前で生まれたままの姿を晒した日にも、やはり雨が降っていた。汚らわしい欲望に奉じることを求められ、肉体の全てを男たちに支配された日々を、桂は恥じも悔いもしない。己の身体などという一切元手がかからないものと引き換えに彼らは喉から手が出るほど欲しい、そして賊軍の兵には決して調達しえないものを提供してくれた。杖にもならぬ折れた刀ばかりを携え、その日口にするものにも事欠く有様。傷病兵を手当てする物資や人手も、雨風の凌げる場所も、何も桂たちは持っていなかった。素裸の自分を好きにさせるだけで、どれだけの同胞を救っただろう。桂は男たちに感謝さえしていた。

 

“それ”は取引だとか、ビジネスだとか称するものでしかなかった。需要と供給が一致して契約が成立する類のもの。間違っても落ちぶれた武家の娘が廓に売られていくような、そんな悲愴なものではなかった。

 

 喉の奥まで突き立てられた陰茎を舐り、両手にも滾ったそれを握り愛撫を施した。ずらりと並んだ淫具を手に取り男たちの眼前で自慰に耽った。存分に解された不浄の窄まりに男根を――時にはいちどきに二本――受け入れた。男たちの妻の股座を犬のように舐め回した。趣味の悪い赤縄に縛められたまま半日近く梁から吊られていたこともあったし、やはりどぎつい赤をした蝋燭で肌を彩られたこともあった。俯せのまま尻だけを高く掲げさせられ、延々尻たぶを平手で打たれもした。童女のように股を開いて屈んだまま盥に小用を足させられた挙句その排泄物を啜るよう命じられたときもある。

 

 それらの行為全て、対価を得るための謂わばサービスにすぎない。

 

 桂は、桂だけはそう信じていた。悔やんではならぬ、恥じてはならぬと。それでいて思い出すな、忘れてしまえとも。

 

――あーだりぃ……流石に帰って手前の布団で寝るわ……。

――それが賢明だ。ここにいても俺が使う一組しかないからな。

――ったく、お客様用布団くらい買っとけよヅラァ。

――ヅラじゃない桂だ! 貴様まさか自分を客人と思ってなどいまいな……?

――へーへー、帰りゃいいんだろ帰りゃ。

――あ、待て! 銀時っ……。

 

 ふらりと隠れ家を訪れた銀時と、買い貯めておいた酒を一頻り飲んだ後、万事屋に帰るという彼を戸口まで見送った明け方。その日の桂は何となく幼馴染と離れがたく、広い背中に追い縋るように声をかけて歩み寄ろうとした。千鳥足が三和土への一段を踏み外し、いきなり飛びついてきた彼を、しかし咄嗟に振り返った銀時はあっさりと抱き留めた。

 

――あ……違う……ちがう、銀時……。

――……ヅラ?

――おかしかろうっ、こん、な……。

 

 帰したくない、など。辛うじて飲み込んだ一言を引き継ぐように、吐息だけで銀時は笑った。ほんの少しだけ目線が上、らしい、その癖普段の姿勢のせいで下手したら桂より幾分か背が低くさえ見える銀時の腕が痩せた身体を抱き込んで離してくれない。堅牢な檻となった肉体はアルコールのせいか、心理的なもののせいかじっとりと熱かった。

 

――なんでだろうな。

――……銀時?

――俺も、帰りたくねぇ。

――ぎ、んっ……。

 

 降りてきた唇が口づけを一つ落として、続く桂の言葉を奪った。

 

 そのまま若い娘のように抱き上げられ、散らばった酒宴の名残の中で二人は初めて一つになった。与えられる対価でも肉欲の発散でもなく、相手との行為そのものを望んだのは初めてで、覚えのないこそばゆさに二人してくすくす笑う。戦場では無慈悲に敵を屠り、常だって手厳しい言葉とともに自分に振り上げられる手が、戸惑うように傷跡を辿っていく。銀時にとっても覚えのあるもの、見知らぬもの。背に回した掌が過日の妖刀が残した傷に触れ、彼は小さく息を呑んだ。固い指先が躊躇いがちに何度もそこを往復する。開きかけた唇は結局何ら言葉を紡がず、ただ、何か確かめるように銀時は桂に口づけた。

 

――久しぶりに、あの妙ちくりんで気色悪いツラじゃねえのを拝んだわ。

 

 久方ぶりの行為の後、桂はしばらく眠りこけていたらしい。ツラじゃない桂だ、と気恥ずかしさもあって反射的に拳が出ても、何がおかしいのか銀時は機嫌よくにやけたままだった。児戯にも似た弱々しい抗議の手つきか、或いは気が抜けきって腑抜けた己の寝顔か。両方かもしれない。とにかく、昼下がりの温い太陽の下を、だらけきったしまりのない顔で銀時は帰路についたのだった。

 

 そうしてあの日から始まった二人の関係に「愛してる」だの「好きだ」だのといった浮ついた告白はなかった。竹馬の友で戦友で、どうしようもない腐れ縁。そんな銀時に甘い言葉を囁くなど、日ごろどんなに考えなしと罵られる桂にでさえ、面映ゆくてできたものではなかったからだ。況や銀時をや。何となしに差向いで飲んだ後や、道で出くわして気が向いた折、銀時は気軽な誘い文句で閨へと桂を導いた。そんなときは大体こちらも拒む理由がないから、するりと受け入れる。神経が焼き切れそうなほどの快感は不思議と桂を安心させて、銀時と交わったあとはよく眠ることができた。

 

 それは確かに幸福だったのだと桂は思う。いつだって失われてから気づくもの。よくよくわかってはいた筈なのに、やはり喪失の前に噛み締めることが叶わなかった。そういった自分の愚鈍さは死ぬまで変わらないらしい。

 

 エリザベスは使いに出ていていない。夕立が無性に桂を苛立たせ、さりとて見たくもないテレビなどとうに処分したから紛らすものが何一つない。

 

 結局はまた、雨の日々を思い出す。

 

 

 

 

 はめ殺しの窓の向こうで蝸牛がのたくたと這っている。そのさらに向こうへと目を向ければ、梔子の花が静かに雨に濡れていた。

 

「おいヅラ、今回の特集はお前らのことだとよ」

 

 もともと世情の解説番組などに興味を持たない銀時であったが、それなりに気に入っているニュースキャスターに大ファンを公言して憚らない美人アナウンサーまでコメンテーターとして出るとあれば、いそいそとチャンネルを合わせるのもやぶさかではない。

 

 昨日の早朝から新八は親衛隊を率いて尾張くんだりまで“遠征”、昼下がりからは神楽はお妙と組んで九兵衛にたま、あやめに月詠まで恒道館に呼びつけて“女子会”だという。となれば銀時も行くところは一つで、夕方過ぎには階下の女主人に声をかけて桂の仮住まいへと繰り出した。三週間ぶりに会う幼馴染は予想通りどこか疲れた顔をしていて、それでもこちらの姿を認めるや険がとれて微笑むのが嬉しかった。

 

 たぬき蕎麦に生クリームたっぷりのホールケーキ、安焼酎という珍妙な組み合わせもいつもの通り。二口ほどスポンジとフルーツをつついた桂が、湯を浴びて先に一杯引っかける。ケーキを片付けて烏の行水を済ませた銀時も手酌で杯を数回干せば、後は気安い言葉すらなくなった。熱い吐息と、控えめな嬌声。疲労の溜まった身体に吐精は辛かろうと思ったのは要らぬ気遣いだったかもしれない。じっとりと高められ、焦らされた桂は一度の逐情で気をやってしまい、物足りない思いと安心しきって脱力している痩身を抱えたまま銀時は夜を明かすこととなった。

 

 そんな気怠い翌朝のこと。

 

「ヅラじゃない桂だ……どれどれ……」

 

 前掛けで手を拭きながら厨房から戻ってきた桂が、ブラウン管に映るアナウンサーの姿に顔を綻ばせた。おお、花野アナではないか元気そうで何より。慕わしげにテレビに語りかけて銀時の隣に腰かけ、後は報道番組の内容に意識を向ける。攘夷志士とは。穏健派とは、過激派とは。そして彼らを取り締まる武装警察真選組とは。

 

 手配書に使われている自分の写真が大写しになった際には、何がおかしいのか桂は笑っていた。高杉の写真が出たときには人相が悪いなどと寂しげに憎まれ口を叩いて、真選組が取り上げられたときには不愉快そうに鼻を鳴らす。煮立った湯もそのままにテレビの前を陣取って動かない桂の代わりに、銀時が代わりに厨房に立つ羽目になる。また蕎麦だ。代わり映えのしないメニューだが、冷凍庫を覗けば多少の気遣いが感じられた。桂の蕎麦にはホウレン草のお浸しを、自分の物には冷凍食品のコロッケをのせて、銀時は狭い居間に戻る。

 

 並んで蕎麦を啜っているうちに、特集は随分と踏み込んだものになっていた。

 

――攘夷だなんだと綺麗なこと言ったって、やってるのはただのテロ行為じゃないですか。誠実に生きる市民を危険に晒すような、ねぇ?

――そもそも彼らの思想って時代遅れなんですよ。世の中の流れについてこられなかった人たちに変革を叫ばれても……って僕なんかは思っちゃうなぁ。

 

 壮年の男が厭味ったらしくそう言えば、腰巾着がそれに追従する。頭の弱そうな若い娘も続いた。

 

――うーん、生まれる前の難しいこととかよくワカンナイですけどお……。じょーい、しし? その人たちって結局悪いコトしてるからお巡りサンに追いかけられてるんじゃないんですかぁ? だってお巡りサンは市民の平和を守る人たちでしょ?

 

 前半のVTRの何を見ていたのかと思うような抜けた発言に、銀時は思わず舌打ちしていた。知らないなら黙ってろクソガキ、呟きそうになる言葉をどうにか汁と共に飲み込んだ。お尋ね者として公権力に追われている。その事実は、厳しさというよりも無関心な残酷さを桂たちに齎していた。実際攘夷志士を騙った破落戸による犯罪も後を絶たず、そういった手合いと真の憂国の士とが十把一絡げにされているという現実もある。

 

 自然な仕草でマイクを貰い受けたのは、普段は優しい微笑みで江戸の天気を告げているその人だった。番組を見る者の多くは彼女の出自を知らないだろう。けれど受け継がれてきた時の重みを知る人の声には確かな説得力があった。

 

――もちろん、暴力はいかなる思想のための手段であってもいけないし、攘夷という言葉をはき違えた不逞浪士たちの行いを許してはいけないと思いますけど……。

 

 僅かに言いよどんだ後、銀時が憧れてやまない麗しい微笑みとともに続ける。

 

――私は……矜持を持った“侍”に敬意を払っています、よ?

 

「ちょっとそれ銀さんのことだよね!? 全国放送の朝のニュースで俺にラブコールしちゃってるよねェェェェェェ!?」

 

 麺やら血やらを鼻から噴出しかねない勢いで喚き立て、しまいには年季の入った畳の上を悶え転がり始めた銀時を完全に無視して桂は蕎麦を啜る。彼女からマイクを受け継ぎ、手段としてのテロ行為は決して容認できない旨を前置きし語りだした人の話に真剣に耳を傾けていた。

 

――将軍おわすこの江戸でさえ、攘夷を志す人々はいまだに陰ながら人々の支援を受け続けていると言われています。

 

 慎重に、丁寧に。吟味した言葉を紡いでいく。畳で踊り狂っていた銀時もいつしか動きを止めてその堂々たる話しぶりに見入っていた。

 

 一呼吸おいた締め括りに、今度は桂が悶えさせられるはめになる。

 

――信念を持つ人の目はどこまでも真っ直ぐで、そういった人の人生と触れ合うと、自分の生き方についても振り返させられます。正義とか、善悪とか……一人一人が持つ生きる意義って何だろうって。

 

 桂にマイクを向けていたときと同じ、直向きな眼差し。

 

――攘夷志士という名の人はいません。天人という名の人はいません。言葉が齎す安直なイメージから解放され、その奥に潜む本当の姿を知ることこそ、今私たちに求められているのではないでしょうか。……私は、暴力で誰かを排斥することのない社会を、人の善意と変わっていく力を信じていたいです。

 

 声も出せないくらいに、柄にもなく桂が照れていた。いつぞやの密着取材はもちろん銀時も見た。散々に振り回され迷惑を掛けられた挙句に怪我までさせられたというのに、彼女は今、攘夷も桂小太郎も否定しようとはしなかった。正確な知識と濁りのない目でもって、自分の知りうること、考ええたことを人々に伝えんとする。

 

「言うねぇ、花野アナも」

「茂茂公の世でなければ打ち首だな」

 

 思いがけず彼女のジャーナリスト魂を垣間見ることができたけれど、公共の電波でここまでお尋ね者たちに肩入れした発言をするとは思わなかった。命知らずという言葉が銀時の脳裏を過ぎって、そもそも最初の取材の時点からそうだったのだろうと思い直す。何しろその時点での桂と言えば穏健派に転向するかしないかといったところ。まだまだ恐ろしいテロリスト集団の首魁と目す人も多かったのだから。

 

――支援、と言えば。今でも攘夷志士たちを支えているのってどんな人たちなんでしょうねえ。

 

 そんなことを呟いたのは先ほどの腰巾着だった。ニュースの華ともいえる二人に思いがけない発言をされ、必死の話題逸らしの一言だったとも言える。

 

 しいん、と静まったところに誰かが落とした言葉は、じとりとした毒を孕んでいた。

 

――やっぱり、イイ人がいたんでしょうねえ。

 

 これまでのやり取りを、ずっと黙って聞いていた男だった。眉尻を下げて相好を崩した顔は、世間ずれしていない人間が見たならば恵比寿様か何かのように思えたろう。しかし世の荒波に揉まれ翻弄された経験のある者は皆、笑んでいない瞳のいやらしさに気が付いた。勿論銀時も、桂も。

 

「おーおー、どうしようもねぇゲスがいたもんだ」

 

 怒りを通り越し呆れさえ滲んだ銀時の声に、しかし桂は答えなかった。じんわりと温められた心に冷や水を浴びせられた気がして、どうしても答えることが出来なかった。

 

 目隠しやらのせいでこちらは必ずしも相手が見えていたわけではないが、ねとねとと不愉快極まりない声はあの日々の記憶に刻み込まれていた。

 

「ヅラ?」

「あ、ああ……まっ、たく……だ……」

 

 笑い飛ばすほどのことでもない。ただ適当に相槌だけ打って、それから茶でも啜ればいい。それだけのことが、どうしてもできなかった。知らず背筋が怖気で震えている。片隅に追いやって殆ど忘れることに成功していたものが何もかも引き摺りだされて、今の――幸福な情交を知ってしまった――桂の目の前に撒き散らされた。全身を這いずる手や舌、緊縛や折檻に使われた道具。後孔を、咽頭を、掌や髪を犯されるということ。絡み付く視線と侮蔑の言葉。

 

「……おい、どうしたんだよ?」

 

 気遣わしげな銀時に心臓が跳ねた。悪心のあまり食べたばかりのものをぶちまけそうになって、咄嗟に立ち上がる。胃が引っ繰り返って、引き攣れて、ひたすら気持ちが悪かった。吐きたい。いやそれよりも、今すぐここから立ち去りたい。明らかに察してしまった銀時に、これ以上の醜態を晒すなんて。

 

 銀時は決して軽蔑しないだろう。桂の取った行動を否定せず、将の選択として受け入れて、それでいてやはり心のどこかで憐憫の情を抱くだろう。

 

 そして、過去と現在の自分を責めるだろう。

 

「っう、ぐ……」

 

 限界だった。衣紋掛けを落としながら着古した羽織を引っ掴み、桂は部屋を飛び出した。手首を掴んだ銀時の手を力の限り振り払う。

 

「触るな!」

 

 命令ではなく、哀願の響きを持った叫びだった。そんな声を聞いたのは初めてで、反射的に銀時の動きが止まった。その一瞬で駆け出して、桂は雨の街に飛び出した。

 

「っヅラ!!」

 

 すぐさま追いかけようとして、銀時は自分の格好に気が付いた。放り捨ててあった下着を穿いただけの、酷くだらしない姿。慌てて着流しを身に着ける僅かな間に、きちりといつものように着こまれた着物とは六月の雨に掻き消えてしまった。逃げの小太郎の異名をとる男に追いつけるかどうかはわからないけれど、舌打ち一つ、銀時もまた雨の中を駆け出した。

 

――何やってるアルか銀ちゃん。ツケ溜めすぎてタコ部屋カ?

 

「そんなんじゃねーよ……とにかく、急でわりぃが今日は帰れなくなった。もう一晩お妙ンとこ泊めてもらってくんねえか」

 

 結局桂に追いつくことはかなわなかった。雨に打たれながらも思い浮かんだ場所を探して回り、昼下がりには一縷の希望に縋るように桂の隠れ家に戻った。がらんとした長屋の一室は、二人が出てきたときそのままになっている。

 

 冷たく濡れた服もそのままに、二晩を過ごして。翌々日の昼に迎えに来た新八に発熱した身体を引き摺られるように万事屋に帰らされた。

 

 予想していたことだが、次に訪れたときにはその仮住まいは引き払われたあとだった。

 

 ただ、梔子の蕾だけが雨に項垂れている。

 

 

 

 

 以前から調査していた事案が急速に動いたのは、ある男をきっかけとしてだった。

 

「すまぬな、長谷川さん。本当は関係のない御仁を巻き込みたくはないのだが……ことは一刻を争うのだ」

「それはお互い様だよヅラっち。こっちにできることはもうほとんどねぇんだ……あの子たちのこと、助けてやってくれ」

「言われずとも」

 

 攘夷党の党首として、不穏な話は以前から耳にしていた。キャバクラの営業やクラブの従業員など、かぶき町でアルバイトをしていれば市井の噂はいくらでも入ってくる。

 

 一人暮らしをしていたあるホステスが急に姿を見せなくなったのは、およそ三か月前のことだという。勤務態度は悪くなかったらしいが、どこかにいい人ができたのだろう、と夜の街の人々はその件をするりと流した。

 

 母一人子一人でやっていた弁当売りがばったりと姿を見せなくなったのは二か月前だ。健康を考えた食材と味付けの折詰はここらでは珍しく飛ぶように売れていた。父ちゃんも死んじまったし、当分はここの人に食わせてもらうかね。そう笑った気風のいい女の後姿は、もうこの街のどこにもない。

 

 男性は苦手だ。けれど同性の輪の中にも入れない。そう静かに泣いていた若い娘が急にかまっ娘クラブに来なくなったのは丁度一か月前になる。友達ができたら友達と、恋人ができたら恋人と来る、と少しずつ笑顔を見せるようになってきた彼女は、確か親元を離れて暮らしていたはずだ。

 

 流石におかしい。幼子を抱えた母親がかぶき町から消えてから始めた調査は、しかし暗礁に乗り上げていた。時折何件か桂のもとに上がってくるのはやはり若い女性や少女たちが失踪したという話で、その上消えた彼女たちは皆一人暮らしで近しいものがいないときている。

 

――やはり俺がヅラ子になって囮捜査をするしか……。

――そんな危険なこと……やめてください桂さん!

――そうですよ! そもそも若い娘っていうには薹が立ちすぎてます!!

――似合ってますけどやめてください!

 

 半ば悲鳴を上げる男たちの前で浴衣やら簪やら紅を物色しているところに、同志の一人が見知った男を伴ってやってきた。長谷川さん、と呟く桂の声に引き摺られるようにして名を呼ばれた男が床に頭を擦りつけた。

 

――お願いだ、子どもたちを助けてほしい……!

 

 いつぞやの気楽な飲みのあと、前後不覚になった自分をなんとか万事屋まで届けてくれた青年のことを長谷川は覚えていたらしい。偶然見かけた彼に藁にも縋る思いで声をかけ、桂のもとにやって来たという。出された冷茶にも口をつけず、長谷川は勢いよく話し出した。

 

――公園の隅を根城にしてた子どもたちがいなくなった。一五を頭に四人。なんでも酷い待遇の施設から逃げて来たそうで身寄りがなかった。ひと月前にふらっと来て、日雇いやら炊き出しやらで、姉ちゃんが何とか下を食わせてやってた。最後に会ったのは三日前で、でかい商家で奉公させてもらうって喜んでたんだ。

 

 簡潔な報告。一旦息を吐いた長谷川は氷が溶けきった茶を一気に飲み干した。

 

――で、今日。一番下のちびだけが帰ってきた。まだ四つだ。そんな子どもが疲れ果てて怯えきってるんじゃ碌に話はできねえ。でもとにかくわかったのは、上の姉ちゃんたちが連れて行かれたのはまともなところじゃあなかったってことだ。

 

 酷く怯えた様子のその子は見知った人間たちの傍らから決して離れようとしなかったため、長谷川だけが同志と共に来たという。ようやく話に一段落ついた長谷川が、二杯目の茶と饅頭に手を伸ばした。逡巡の後、饅頭は食べずに縒れたポケットティッシュで包む。貧してなお鈍することのないこの年嵩の男に、桂も志士たちも好感を持っていた。

 

「話はわかった。いずれにせよその少年に話を聞かねばなるまいよ。だがその様子ではな……少なくとも今日のところは見知った面々で囲んでやったほうがいい」

 

 流麗な仕草で姿勢を正した桂が傍らの男にいくつか指示を飛ばす。屈強な男たちが頭を一つにした龍のように動いていくのを、長谷川は感心して眺めていた。もう一度、ひんやりと美味い茶を啜る。倹約を旨とする桂たちらしく、茶葉はさほど良いものではないだろう。それでも飲む人間の事を考え、丁寧に淹れられたものであるとわかった。

 

「長谷川さん。公園に何名か部下を行かせた。子どもに姿を見せることのないように言ってはあるが……安全のためだ、了解してほしい」

「いや、こっちこそ悪いねヅラっち……よろしく頼みます」

 

 頭を下げた長谷川に答えるように、桂も深く頷いた。公園に帰る前に階下に寄っていくよう、念を押してから立ち上がる。釣られるようにして長谷川も慌てて立ち上がった。

 

「そうだ、長谷川さん……一つ頼みがあるのだ」

 

 帰りしなの背中を呼び止める。

 

「俺たちはしばらくここを拠点の一つとする。何かあれば下の主人にそれと告げてくれ。今日のようにこちらに上がれるはずだ。ただ、」

「わかってるよ。他言無用ってことだろ?」

「……銀時や、リーダーたちにもだ」

 

 訝しげにサングラスの奥の目を瞬かせた長谷川だったが、桂の気迫に押されてゆっくりと頷いた。

 

 炎天下を一人去っていく疲れた背中を窓から見送りながら、やるべきことを整理する。方々に指示を出してさせるべきこと。自分がやらなければならないこと。文机の上の書きさしの書類は破棄して書き直さねばならない。

 

「そう言えば」

 

 書斎に向かう前に。気心の知れた部下に、桂は一つ個人的な頼みを告げた。

 

「薹が立つ、で思い出したのだ。すまんが幾松殿の身辺に注意してやってくれ。実家もあるし店を切り盛りしているのだから心配はないと思うが、あの人も一人で暮らしている身だし何より美しい女性だからな」

「……わかりました、桂さん」

 

 思い出し方が最低ですよ、の一言は胸にしまい男は深く頭を垂れた。

 

 

 

***

 

 

 

 長谷川の仲立ちがあって子どもと話すことはできたものの、なかなか捗々しい情報は得られなかった。何しろまだ四つの子だ、奉公先として告げられた屋号も連れて行かれた場所も何も覚えてはいなかった。そんな幼子を宥めながら、恐ろしい記憶を桂は無理やり引き摺りだそうとしている。

 

「ねえちゃが、肩車して。ちいねぇがお馬さんになったのに乗って。ちっちゃな、窓から逃げなさいって」

「成程。窓の外に出るとき怪我はしなかったのか」

「転んで、ひざ……」

 

 涙ぐんで膝を摩った子の頭をそっと撫でる。優しさに触れてますます涙を零し始めたのに対応しかねて、桂は視線をうろつかせた。酷だが話してもらわねばならない。思い切り泣かせてやれるのは姉妹の無事が確認できてから、その腕の中でも遅くない。ふと目についた行李の上の縫いぐるみを差し出す。昨年エリザベスからもらった誕生日プレゼントの猫は、もふもふとかわいがりすぎて随分と草臥れている。

 

 あ、ねこ、と子どもが小さく呟いた。

 

「猫がどうした」

「いたの。お外出たらいたの。お耳がないの、ついてこいって」

「……その、猫の後ろを逃げてきたのか」

 

 縫いぐるみを抱えて頷いた子を驚かせぬよう尋ねるのに、桂でさえそれなりに自制心が必要だった。

 

「その猫はもしや……白と黒の、あまり目つきのよろしくない猫ではなかったか」

「うん」

 

 行く先は決まった。再び頷いた子どもを前に、勢いよく立ち上がった。すっかり空になったコップや皿を見て、それなりに長く話し込んでいたことにようやく気づく。人を呼び子どもと長谷川に茶菓子やらジュースやらを出すように頼んだ。

 

「それは非常に重要な手がかりだ。会わねばならん御仁ができたが、二人はもうしばらく休んでいてくれ。夕食も用意するよう言っておく」

「ねえちゃたちのこと、たすけてね」

「約束しよう」

 

 くったりした縫いぐるみを抱いたままの子と同じ目線になるよう屈み、固く誓う。先ほどを頭を撫でた手を、今度は正面に差し出した。おずおずと伸ばされた小さな掌を握りしめたとき、茶盆を持った青年が部屋に入ってきた。風が吹き抜けて窓際の風鈴が涼しげな音を立てる。瞬いた子どもが長谷川の袖を引いた。

 

「このにおい!」

 

 子どものためにと買って来させた、甘ったるいジュースの匂い。コップを満たしたそれは今年の桃のものだ。果肉の瑞々しさを残すとろりとした液体がゆったり揺れる。

 

「あの部屋、このにおいしたの。ずっと、ずうっと」

「ヅラっち……!」

 

 さっと顔色を変えたのは桂だけではなかった。そのまま若い部下に子どもを預け、長谷川と共に部屋を後にする。奥まった私室に連れて行けば、桂から尋ねるまでもなく話し出した。幼い姉妹を思う顔は色を失くしている。

 

「“あそこ”との星間交流は絶たれたはずなのに……」

「江戸の町に隠れている可能性は」

「松平公と真選組がかなり厳しく取り締まった、少なくとも組織的に動けるほどはありえねぇ。かといって天人が少ない町に潜伏することは不可能だろう。容貌は地球人とまるで違うから」

「ならばこちらから、だな。情報が足りない。党の者を呼ぶから、知っていることを話してやってくれ。頼む」

「わ、わかった……」

 

 攘夷戦争を生き抜いた腹心に長谷川を預け、桂は羽織を脱ぎ捨てた。同志たち、特に戦争経験のない同年代以下の若者たちに稽古をつけるときに着る道着を引っ張り出す。これから向かう寺があるのはかぶき町の外れだとはいえ、会いたくない人物と鉢合わせする可能性がないわけではない。それでなくとも真選組などに見つかってしまっては厄介だ。

 

 身支度を整え、縒り紐で髪を高く結う。愛刀の鞘を素朴な木のそれに変えてしまえば、攘夷党の首魁は消える。鏡に映った自分は、道場に通う青年にしか見えなくて、万事屋の少年を思い出して桂は薄く微笑んだ。

 

 

 

***

 

 

 

「ホウイチどのー、おられるか?」

 

 じりじりと肌を焼く太陽が少し翳り始めて、木々の茂る境内を吹き抜ける風も温くなってきている。

 

 衣服や髪が汚れることも厭わずに、桂はべったりと地に伏せて縁の下を覗き込んだ。かぶき町を所狭しと駆け回る猫の王が、そこに横たわっていたのは僥倖だった。片目だけ開けてこちらを睨むホウイチに、勢いよく話し出す。手土産の猫缶を差し入れることも忘れない。

 

「先日、幼い子どもを助けてくれたろう。その場所に案内していただきたいのだ。その子の姉たちが助けを待っている」

 

 ぬかるんではいないものの湿り気を帯びた土に右頬を押し当て、床下の猫に話しかける桂はどう見ても不審者だ。人気のない境内でなければ衆目を集めたに違いない。だが幸いにして日の落ちかけた寺に近寄る者は殆どおらず、たった一人犬の散歩に来ていた老女も、猫と遊びたがる剣術少年を遠目に見て微笑しただけだった。

 

 にぁ、と答えるように鳴いたホウイチがのっそり縁の下から姿を現す。手の付けられなかった猫缶にはすぐさま小さな三毛猫が二匹飛びついた。

 

 まるで人気のない裏道と、地上からも近辺の建物からも見えにくい屋根の上。追われる身ゆえ桂自身もそういった道には通じているほうだが、ホウイチはそれ以上だった。脳内の地図に手を加えながら桂は猫の後ろに従う。ホウイチがやすやすと通り抜けた破れ垣に無理やり身を捻じ込ませ、長屋と長屋の間を蟹歩きして進むうちに、着古した道着はあっという間に薄汚れてしまった。とはいえそんなことを気に掛ける桂ではなく、服も体も汚れるにまかせ、ホウイチの後についていく。

 

「ここ、か?」

 

 辿り着いたのは倉庫街の一角だった。屋号がわかるようなものは見当たらない。もう少し周囲の捜索を、できれば倉庫の中も見たい。そう考えながらホウイチに近づこうとしたところで、帯刀した破落戸が桂に歩み寄ってきた。

 

「こんなところで何してるんだァ? お嬢ちゃん」

 

 お嬢ちゃんじゃない、と言いかけて慌てて口を噤む。男たちが不振がるよりも前に助け舟を出したのはホウイチだった。なあぁ、と気の抜けた鳴き声に全員の視線がそこへ向かう。屈みこんだ桂が手招きすると、いかにも不承不承という体を装ってこちらへゆっくりと歩いてきた。

 

「逃げた猫を追っていたら迷い込んでしまっただけのこと」

 

 腕に抱きこまれた小動物と、甘ったるいと揶揄されることも多い整ったかんばせ。煤けた道着を着こむ痩身に結い上げた艶やかな髪。男たちが警戒を解くのに十分な姿だ。

 

「そういうことならさぁ、剣術小町ちゃん。ちょっと遊んでいこうよ」

「いや、結構。夕餉の時間が近づいているのでな。失礼する」

 

 桂とて特別小柄な方ではないが、やたら図体ばかり立派な男たちに囲まれては儚く華奢に見える。馴れ馴れしく肩を抱こうとした腕を片手で強く払われても、彼らの余裕は崩れなかった。気位の高い振る舞いや堅苦しい口調もそれはそれでそそられるものがある。自分たちを浪人風情と馬鹿にするような、こういったいかにもな武家の女を手籠めにするのはさぞかし楽しいだろう。

 

「つれないこと言うなよ。別に怪しいもんじゃないぜ俺たち」

「そうそう、ここらを仕切ってる伊佐和屋でちょっくら働いてるモンだよ」

「っオイ……!」

「いいだろ? 別に隠し立てすることでもねぇ」

 

 ホウイチを抱き直して桂は男たちを睨み据えた。その屋号には聞き覚えがあった。甲斐の新鮮な果物を江戸で売り、近年市中で人気を博している。ターミナル近辺に出した直営店で、季節の果実を地球土産に買い求めていく天人もいるそうだ。だがそれは表向きの稼業でしかない。桂の目が眇められた。怜悧な面差しに、破落戸は一瞬たじろいだ。その間を当たり前のように通り抜けようとすれば、流石に肩を掴まれたけれど。

 

「何をする、離せ」

 

 激昂するでも怯えるでもない冷めた声に、見下げられた男たちの怒りが煽られた。強引に引き寄せようとする腕をあっさりと引き剥がして、桂は腕を軽く振り上げた。その勢いを利用してホウイチが高く飛び上がる。庇を踏み台に屋根の上に姿を消した猫を見て、桂は男たちに向き直った。

 

「かわいげのねぇアマだ……痛い目みねぇとわかんねぇようだな……」

「三下に似合いの安いセリフだ」

 

 脅しの言葉さえあっさりと聞き流されて逆上した集団の一人を、桂は軽々と投げ飛ばした。次いで手近な男に膝蹴りを叩き込み、三人目の首筋には手刀を落とす。瞬く間に半数が伸され、残りの面々の余裕は霧消した。同時に腰のものに手をかけたところで、既に眼前に切っ先が突き付けられていた。

 

「やめておけ。貴様らでは俺には勝てん」

 

 三人が戦意を喪失したのを見て、桂はおもむろに歩き始めた。倉庫と倉庫の間に入り、狭い路地に積まれた木箱を足掛かりに屋根に上る。先に帰ったかと思ったホウイチが、そこで待っていた。

 

「騒ぎになってしまったな」

 

 なぁご、と答える鳴き声に焦りはない。しかしホウイチはただの猫にしか見えないとは言え、万一捕まれば八つ当たりの折檻などを受ける恐れもあった。大声や物音を聞きつけた人間が下に集まり始めているのがわかる。ようやく自分たちを叩きのめしたのが女ではないと気付いたらしい。

 

「ホウイチ殿。娘御はまだここの倉庫にいるのか」

 

 だとすれば、どうにかして助け出さねばならない。党員たちは桂の単独行動を嫌っていたが、娘たちが監禁されているとしたらここまでして徒手で帰ることができるはずもなかった。関連が疑われなくとも、用心のために場所を移すことは十分に考えられる。

 

 幸か不幸か、一つ鼻を鳴らしたホウイチは、はっきりと首を横に振ってみせた。つまらない小競り合いの間にひとっ走りして調べてきたことを桂は知らないけれど、溜め息を零して頷いた。

 

「……そうか。ならば仕方があるまい。退こう」

 

 ふてぶてしく瓦に寝転んだホウイチを抱いて桂は倉庫街を後にした。

 

 

 

***

 

 

 

 その後改めて密偵を向かわせたが、やはり娘たちは見つからなかった。調査の結果、子どもが一人逃げた翌朝には既に姉たちの監禁場所を変えたこと――考えてみればそれが自然だ――がわかったが、その行く先は未だ明らかになっていない。

 

 いっそうの激しさで喚き立てる蝉たちを風流に思う余裕もなく、桂は腹立たしげに新聞を放り出した。エアコンはおろか扇風機すらない部屋はもはや一秒たりともいられないのではないかと思われるほどに暑い。誰もいないのをいいことに羽織を脱ぎ捨ててついでに諸肌を脱ぐ。そうして汗をかいたコップの麦茶を一気に干せば、茹だった頭も少しは冷えた気がした。

 

 幼い子どもの言葉が脳裏に蘇る。広い宇宙には思いもよらないものを糧として暮らす種族がいることは知っていた。奥琊族と呼ばれるその星の住人は、別種族の女の肉を好んで喰らうという。殊、年単位で口にするもの全てを甘い果実――たとえば、桃など最も望ましい――に変え、芳しい香りとなった若い娘が、珍味として重宝された。

 

 体毛が薄く肌がつるりとしているものの、外見的特徴の似た夜兎などと異なり極めて非力な地球人は、彼らの口にさぞかし合ったのだろう。敗戦後まもなく星間交流が始まったものの、度重なる誘拐や奴隷の売買にブチ切れた松平片栗虎が半ば独断で奥琊星人をしょっぴき始めたという。桂自身、仲間たちと共にかくまってもらった町で攫われた娘たちを助けるのに尽力したこともあったし、その中で何人かの奥琊族を手にかけもした。結局愛娘を思う松平及び彼の部下真選組の暴走は、ずいぶん遅れて幕府のお墨付きとなったのだった。ふん、と鼻を鳴らして独り言つ。

 

「もともと他星の者を食い散らかす鼻つまみ者だったのが幸いしたというわけだ……」

 

 とはいえ珍しく幕府も狗どももまともな仕事をしたと思ったものだから、桂もよくよく覚えている――あの頃長谷川は入国管理局で奥琊族の強制送還に携わっていたのかと思うと人の運命というのはわからない。

 

 相次ぐ女性の失踪事件と今回の姉妹の誘拐。奥琊族。伊佐和屋。全てが密接に関わっていると考えるのは桂だけではない。こういうときのエリザベスの直感は桂のもの以上によく当たった。

 

 だが、これらを繋ぎ合わせる何かが欠けている。

 

 伊佐和屋は果樹園の管理や収穫物の売買の他に、妓楼の経営にも手を出していた。こちらは完全に大旦那の趣味だが、金に飽かせて寒村の娘を買い叩き、人身売買じみたことまで行っていたことは調査済みだ。

 

「しかし奴らは所詮江戸では新参者……」

 

 何らかの目的で天人との接触を望んだとしても、水面下での活動を支える後ろ盾がない。どこかの商家か或いは幕吏か、そういったものの手引きがなければ、この江戸で思うように活動はできないだろう。甘い汁を啜る先人たちに潰されるか、警察組織にひっ捕らえられるのが関の山だ。

 

 消えた娘たちを捜索する者、市中に目を光らせ次の被害者が出るのを防ぐ者、伊佐和屋について調査を進める者、奥琊族との繋がりを探す者。皆が皆休日を返上し資金繰りすら考えるのを辞めて今回の件で動いている。奥琊の習性からして娘たちがすぐに命の危機に晒されることはないと信じたい。けれど彼女たちが地球を離れてしまっては取り返しがつかないのだ。焦る気持ちがじりじりと桂を苛立たせた。

 

『桂さん、お電話です』

 

 党で利用している邸宅に、一本の電話が入ったのはそのときだった。ほとんどの人にはわからないかもしれないけれどエリザベスの表情ははっきりと強張っていて、桂も表情を引き締めた。だらしなく着付けていた衣服を整え、羽織に袖を通す。

 

「……桂小太郎だ」

――……ああ……お声まで綺麗なお方だ。

 

 ねっとりと笑ったその男は、伊佐和屋の代理人を名乗った。

 

――先日はどうも、末端が失礼を致しまして。

「子飼いの躾ぐらいしておくことだ。将軍家御用達の名が泣くぞ」

――手厳しいお言葉。

 

 桂の視線を受けてエリザベスは首を横に振った。逆探知を邪魔立てする何かがあるようだった。頷いて口を開く。

 

「して、この俺に何の用がある」

――恐れながら、用があるのはそちら様かと存じますが。

「ほう。どのような用があるかぜひ教えてほしいものだな」

 

 喉の奥を軽く震わすような、人を見下げた笑いが聞こえた。食えない男だ。漏れ聞こえる声を聞いた若い志士が不快そうに顔を顰めたが、桂は眉一つ動かさなかった。

 

――……ちゃん? ……ちゃんなの?

 

 次に受話器から聞こえてきたのは、少女のか細い声だった。

 

――わたし……よ、ちいねえよ。聞こえる?

 

 懸命に繰り返す弟の名も、弱々しく紡がれた自身の名も、確かに幼い子から聞いていたものと合致する。何か桂が問いかける前に、彼女は電話口から引き剥がされたようだ。沈黙の後、再び耳障りな声が流れ込んでくる。

 

――おわかりいただけましたか。

「目的は」 

――桂様。貴方に用がございまして。

「“俺”にか。それとも俺の首に?」

――信用ならないというなら刀は差したままで構いませんとも。桂様。私どもは貴方様にぜひお目にかかりたいのです。

 

 約束の日時を淡々と告げ、そのまま電話はふつりと切れた。

 

 

 

***

 

 

 

 腹心と共に訪れた料亭から桂だけが車に乗せられる。フルスモークの高級車からは外の様子は窺えない。長い潜伏生活で江戸の町並みには精通しているつもりの桂だったが、それでも長時間揺られているうちに土地感覚を失っていた。わざとわかりにくい場所を通ったり同じ道を辿ったりしている。建物内の駐車場をぐるりと回ったりもしていたようだ。

 

 さり気ない仕草で髪を耳にかける。裾に縫い付けた薄い発信器が機能している様子はなかった。恐らくこういったものの作動を妨げる何かがある。完全に部下たちと引き離されたとわかってなお、桂は焦燥を見せなかった。隣に腰かけた代理人もまた、そんな桂を前に何一つ振る舞いを変えることはない。

 

「……どうやら着いたようですね」

 

 ようやく、外側からおもむろにドアが開かれた。嫌味なほどに鷹揚な仕草に応える態度で外に出れば、目の前に聳えていたのは壮麗な、けれどどこか陰気で近寄りがたい日本家屋だった。旅籠か料亭の離れだろうと桂は考え、内心で嘆息を漏らした。こういったところに桂を呼び込む手合いに碌なものがいたためしがない。

 

「中へどうぞ?」

 

 ご案内いたします、と一歩進み出て歩き始めた男の背中を睨みながら、桂もまたぽっかりと口を開けた屋敷へと歩を進めていった。

 

 階段を上り、二階の突き当りへと向かう。他の客はおろか女将や女中の一人にさえ出くわさないことからも、これから先待ち受けていることが十分に予想できる。発信器と小型無線は最早何の役にも立たないだろうが、人質を発見し解放に成功した場合の連絡方法はもう一つ手配してあった。江戸市中で色とりどりの花火を打ち上げる、夏らしくて愉快でアナログなやり方。夏の夜空に大輪の花が咲くまで、どれくらい時間を稼げばいいのだろう。考えるだけでうんざりした。

 

 突き当たった部屋の襖を、両膝を着いた代理人がそろりと開く。

 

「失礼いたします」

「おや、主賓のお出ましですね」

 

 開け放たれた奥にあったのは、先日一方的に――古いブラウン管の中に――見た男の姿だった。宴席を囲むのは男を入れて五人。能面のような表情が僅かだが確かに強張ったのを見て、五対の瞳がはっきりと眇められた。促されて室内に足を踏み入れた桂を、一人が席に座らせる。見覚えのある顔は二人。伊佐和屋の主人と過日の男だけだった。

 

「随分とご無沙汰しております。桂さん」

「甲府の果物問屋と江戸の海運会社に繋がりがあるとは知らなんだ」

 

 冷え切った声で吐き捨てた桂を見て、男は更に嬉しそうに笑う。

 

「ご存知でしたか。奥琊の旦那方と商売させていただいていることも?」

「娘たちは無事だろうな」

「それを決めるのは桂さんではございませんか」

 

 銚子から手酌で一杯やり、空になった猪口にまた酒を並々と注ぐ。そうまでして差し出されたものを拒むことはできず、桂も一息に杯を干した。

 

「上等な果実ばかりを口にして過ごした女のゆばりは、極上の甘露と聞いております……至上の妙薬とも。私は一度それを味わってみたいのですよ」

 

 低俗の極みだと思った桂だが、それを口にすることはない。激昂させるのを恐れたのではなく、そのような罵倒ですらこの下衆たちを喜ばせることになると知っていたから。先ほどと同じように二度目を干させられるが、不快感はいや増した。

 

 ちらりと横目で盗んだ空は腹立たしいほどに凪いでいる。

 

 花は咲きませんよ、と嗤ったのは桂の知らぬ老人だった。

 

「趣味に実益も兼ねた実に楽しい商売です。あなた方に邪魔をされては困ります」

「今娘たちを処分しても何の益も得られないのはこちらも同じ」

「……手を引けと。近い将来、天人に食い殺されると知りながら」

「それも助かりますがねぇ……」

 

 いかにも申し訳なさそうに眉尻を下げた男の微笑みのような何かを見て、桂は知らず柳眉を顰めていた。嫌悪感を隠せなくなってきている姿に男たちの期待が増す。

 

「率直に言いましょう、桂さん。私は……私たちはあの晩を忘れられないんですよ。人質を殺されたくなくば、大人しく服を脱いで横になれ。……なんて使い古された悪党の手を使ってしまうくらい、あなたに首ったけなんです」

「……は、」

 

 その話自体は概ね予想しうるものだった。けれど一言“私たち”という言葉の意味だけがするりと頭に入ってこなくて、桂は愕然と瞬いた。今さらのように先だっての二杯が喉を焼いて、声がうまく出てこない。

 

「あの日は感激のあまり声も出ませんで」

「私なんて若造でしたから、家政婦のように部屋の外から覗き見るだけでしたよ」

「うちは家内が桂さんに骨抜きにされてしまって。ぶくぶく肥えた豚が、こんな美男子に奉仕してもらえたのが嬉しくて堪らなかったんでしょうね。私など近寄らせてももらえませんでした」

 

 賑やかな談笑が思考を塗りつぶして殺そうとする。悍ましさに荒くなる呼吸を懸命に抑え込んで、桂は男たちを伸して拘束する算段を立て始めた。人払いされた屋敷の中には腕の立つものも火急の時のための人間もいない。人質の見張りと連絡をつけるより先に全員を叩きのめして逆に弱みを握るのは、桂にとって造作もないことのように思えた。なんだったら多少痛い目を見てもらっても構いはしない。殺さないようにだけは気をつけなければならないけれど。

 

 黙りこくった桂を十の瞳がとっくりと眺め、昏い喜びに輝いた。

 

「反抗的で、希望は決して失くさない……素晴らしい目をしていらっしゃる」

「まだご自分の立場がおわかりにならないようで」

 

 低い嘲笑と共に開け放たれた隣室へ続く襖の奥。薄暗がりに転がされていたのは馴染みの店以上の意味を持つ行きつけの店の女店主だった。傍らの男が抜いた刀が、晒された白い喉を狙っている。

 

「いく、ま……つ、どの……?」

「おや、お知り合いかな? それとも君の“ご友人”か……」

「貴様ら……!」

「さ、刀なんて無粋なものは捨ててしまって……お召し物をこちらに。どうすればいいかお分かりになるでしょう?」

「……ふざけた真似を」

 

 名刀の切っ先を突き付けられているのかと錯覚するほどの視線だった。あらゆる汚い手で人を堕としてきた男たちですら、ぞっとして足が竦むほどの。娘たちと幾松、人質たちがいなければ思わず膝を追って平伏してしまいそうだった。

 

 一瞬背筋を凍らせた畏怖は、そのまま桂を屈服させて壊す悦びに変わる。

 

 それきり口を噤み、潔く羽織に手をかけた桂は恥じらってみせるでもなくそのまま一糸纏わぬ姿になった。どれほど名のある職人でも造り上げることの叶わないだろう、すらりと美しい肉体が露わになる。薄くしなやかな筋肉に覆われた身体を、一生涯消えることのない無数の傷が飾っていた。

 

 抵抗の意思を捨てた桂に、いくつもの手が伸ばされた。闘うことを知らない腕を振り払い、彼らを叩きのめして逃げ出すことを望むならば容易い。桂小太郎は決してそうしないと、それができない桂小太郎が玩具として好ましいのだと、男たちは喜色の笑みを浮かべた。

 

 静かに瞑目する桂は、諦念と呼ぶにはあまりに毅然とそこに立っていた。けれどその胸中に湛えられている恐怖や絶望を見抜いた男は一人ではなくて、誰もがその気丈な態度を打ち崩すことを熱望している。

 

「なんて美しい……」

 

 吐き気を催すような賞賛を努めて無反応で聞き流す。かつては死の淵で喘ぐ仲間たちを脳裏に浮かべた。助かるはずの傷に蛆を湧かせ死にかけて、武士と思うべくもないほどに痩せ細った戦友の姿を。或いは死んでいった仲間たちのことを想った。錦を飾るどころか国賊となり、故郷に帰ることも適わずに戦場に散った数えきれぬほどの命を。

 

 愛を知らない身体はそれで耐え抜くことができた。

 

 どれほどの仕打ちを受けても、どんなに喘がされても、決して本気で拒んだりはしなかった。今は違う。

 

 愛のある交わりの幸福を、愛のない行為の苦痛と屈辱を知ってしまったから。

 

 耳元で囁いたのは、あの日桂を手酷く抱いた壮年の男だった。

 

「桂さん……」

「ひッ……やめろっ!!」

 

 彼が胸板を柔く揉み上げた手を。両足を這い上り萎えた中心に触れようとした他の者の手を。一度反射的に振り払ってしまえば、後から後から怯えは押し寄せてきた。

 

「え……!? あ……う、うそだ、」

 

 今さら恐怖や嫌悪に震えることがあるなんて。何度瞬いてみても、やはり男を拒絶した右手は小刻みに戦慄いていた。

 

「これはこれは……」

「いささか傷つきますなあ」

 

 ちらりと目配せしあった男たちが、好色な笑みを浮かべた。

 

「無理にとは言わないが……こう言ったことはお互い楽しめないとフェアじゃないでしょう?」

「あなた以上に喜んでくれそうな人がいるなら、我々としても無理強いはしたくないんですよ」

「このお美しいご友人も、随分と長く男日照りでいらっしゃるとか?」

 

 後ろ手に縛められ、足首には枷。猿轡を噛まされてなお、男たちに怒りをぶつけているのだろう。くぐもった呻き声が桂を囲むにやけ面に投げつけられていた。

 

「そうだ! “アレ”をここに」

 

 空とぼけて一人が白々しく声を張り上げれば、他の者たちも異口同音にそれに答える。やがて桂の眼前に持ち出されたのは、思いがけないものだった。

 

 小さな袋に入れられた純白の粉末。その陰に隠れるように、掌に握り込めるほどの注射器。桂の目の前で、酒の残っていた徳利に袋の中身がぶちまけられた。軽く二、三回揺すってから猪口に空ければ、酒は少しばかりとろみを増したようにも見える。完全に溶けきった悪魔の薬物がゆっくりと注射器に吸い上げられていく。自ら調査しさらには撲滅に尽力したそれの効果を、桂は非常によく知っていた。

 

 クソッタレ、と吐き捨てた声が、自分のものでないように虚しく聞こえる。男たちは自らの手でそれを桂に突き立てようとはしなかった。

 

「君がそんな蓮っ葉な捨て台詞を言うなんて!」

 

 ケタケタ笑い声を上げている男たちはどれほどの愉悦を覚えているのだろうか。首を狙う白刃など気にもとめず、こちらを止めようと身を捩らせている幾松に桂は静かに微笑みかけた。握らされた注射器は犠牲者を待っている。幾松か、或いは桂かを。

 

「っう……」

 

 静脈に入り込んだ最初の一滴は、ぞっとするほど冷たかった。驚くべき速さで全身を凍りつかせたその薬はしかしすぐさま気も狂わんばかりの熱を齎す。力を失くした右手が注射器を取り落したのを、辛うじて桂は理解した。大きく傾いだ背中を男の一人に抱き留められた。抵抗しなければという意志だけは微かに残っているのに、熱と極彩色の光の中に沈んだ身体は碌に動いてはくれなかった。

 

「は、なせ……」

「貴方から倒れ込んできたのではないですか」

 

 耳元を擽る粘っこい声も、背中に下ろした自分の髪でさえ敏感になった身体を徒に刺激した。身を起こそうとする緩慢な動きが面白かったのか、唐突に背後の男が桂から離れた。ばたん、と畳に頽れた身体の、指先を僅かに震わせるのさえ難儀だ。思考を焼き尽くした白は残酷なほど優しくて、考えることをやめ快楽に浸っていたくなる。何に抗っているのかもわからなくなりかけながら、それでも桂は身を起こさんと痩身をもがかせた。

 

 蜘蛛の巣にかかる蝶か、或いは翅をもがれた蜉蝣か。いずれにせよ本来生きるべき場所から追いやられたその姿はどうしようもなく無様で、憐れで、あの桂小太郎がそうしたところに堕ちたことが男たちを雄々しく滾らせた。

 

 奮闘する桂がどうにかこうにか肩肘をついて上体を起こしかけたところで、まどろっこしいと一人が黒髪を掴み上げた。無理やり引き摺り上げられて顔を歪める桂を見て、幾松が憤怒に呻く。大丈夫だ、と口に出して言おうとして、弛緩した唇の端から唾液が零れた。それをあげつらって笑われても、拭うために手を持ち上げることもままならない。

 

 男の一人が髪を質に取ったまま、他の者が晒された裸体に手を伸ばす。後ろに強く引かれて仰け反った上体を、肉厚の掌が這いずり始めた。ひくりと震えた喉から首筋にかけてを舐め回される。ひ、と弱い吐息が漏れた。決して気持ちよくなどない。けれど体内に練り込まれていくのは確かに快感だった。兆してしまうことを恐れ、弛緩した足に力を込める。

 

 どうにか膝頭を合わせたところで、待ち構えていた左右の男に両足首を掴まれた。

 

「よせっ……!」

 

 抵抗は言葉だけだった。知己の女性の前で性器を露わにされて、恥辱のあまり桂の頬に朱が走った。その頬を舐め上げられただけでなく、芋虫のように太い指が萎えているものに伸ばされていく。

 

 どたん、と重い物音と共に、男の苦悶の声が上がったのはその時だった。

 

「ってえな……何しやがるこのクソアマ!!」

 

 首を狙う刃にも恐れず、全身で見張りに体当たりをかました幾松が、傍らの行灯に這い寄っている。手を縛める縄を焼き切ろうという勇敢な試みが果たされる前に、怒り狂った男が無防備な腹を蹴り上げた。

 

 壁に全身を叩きつけられた幾松の動きが止まる。頭を強く打ったのかもしれない。噎せ返ることもなく意識を手放した彼女に、男はなおも足を振り下ろそうとして、鋭い声に制止させられた。思わず振り返って、驚愕に刀を取り落しそうになる。

 

「幾松殿から……離れろ……!」

 

 両足を拘束する男二人を蹴りとばし、後ろから上体を抱く一人に肘を入れ、桂はそこに立っていた。憤怒の表情は全身の血を凍りつかせんばかりのもので、勢いを持ち去られた男は薄笑いを浮かべ後ずさって幾松から距離を取った。暴力的な衝動をちらとでも持った途端、桂に縊り殺されかねないと心底思っているようだった。

 

 壁際に臥す幾松から離れ見張り番が部屋の真ん中で足を止めた。それを見届けた桂の身体から力が抜ける。たたらを踏んだ足はもう僅かにも踏ん張ることができず、傾いだ上体は立ち上がった一人に抱き留められていた。少々驚かされはしたものの、男たちにとってはこれもまた面白い余興だ。

 

「さすが桂さんだ、気力だけで立ち上がってしまうなんて!」

「ギャラリーがいないのは残念ではありますが……」

「まあ、これで桂さんが思うように乱れられるならいいではありませんか」

 

 体中に手が、舌が這わされても。もう拒む力など残っていなかった。

 

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初出:2014/06/26(pixiv)