心の瞳 中篇

前篇へ ←

 

 

 

 桂宛の電話がかかってきたそのとき、長谷川は根城とした公園で新聞に包まれて空腹及び長引く頭痛に唸っていた。何が悪かったのか、あの後すぐ夏風邪を引いてしまったからだ。子どもだけを攘夷党の青年に預け、誰に頼れるでもなく公園のベンチで寝る夜はひたすら苦しかった。風邪っ引きの中年男まで厄介ごととして押し付ける気はなかったから、二晩を寂しく公園で過ごしたけれど流石にもう限界だ。熱はだいぶ下がり咳も収まったが腹に入れるものがない。先立つものもない。

 

 逡巡の末、長谷川はだるい身体を無理やりベンチから引き剥がした。桂に会ってこよう。子どもに会って、それから調査のことについて聞くついでに階下の小料理屋で何か食べさせてもらえばいい。

 

 コンクリートから立ち上る熱気と、自身の体調不良とで、夏の街並みが歪んで見えた。

 

「長谷川さん! すみません今ちょっと上が立て込んでいて……ここでゆっくり食事でも」

 

 辿り着いた瞬間心底申し訳なさそうに出迎えてくれた年若い党員に、まさかそれが目的ですとも言えず長谷川は曖昧に笑った。彼の背中に負ぶわれた子どもも嬉しそうに手を伸ばしてくる。

 

「いや悪ぃね……っていうか随分懐かれたじゃん」

「はは、もともと丁稚奉公で江戸にやって来たんです。末っ子ですが子守は慣れてますよ」

 

 若いというよりもむしろ幼くさえ見える――聞けば万事屋の少年と二つ違いだった――彼は攘夷戦争で幕軍に兄三人と父を殺されたのだという。

 

「幸い長姉の旦那さんがいい人で、うちに入ってくれたんですけど。すぐ上に病気の姉がいましてね。薬代を稼がなきゃならなかったんで」

「へえ……それで江戸に来たってわけだ」

「はい。特に大旦那と若女将には本当によくしていただいて。もともとこういった活動には大旦那が積極的に関わってらして、俺にも色々教えてくださったんですが、最近大病をね……。それで、忙しくしてらっしゃる若旦那に代わって俺がこっちに顔を出すようになったんです。あ、いやもちろん代理なんて大それたもんじゃありませんが、文やら金子やらのやり取りとか、あとは俺の勉強のためにも」

「信用されてるじゃない、期待も」

「ありがたいことです! なんでも戦争で亡くなった、大旦那の兄貴分にちょっとばかし似てるらしくて……こそばゆいんですが」

 

 頭を掻いて笑った少年は、自分の食事の傍ら手際よく子どもにも食事をさせている。ぽろぽろと食べこぼすのをそっと拭い、箸の持ち方を少し直す。バランスよく食べるよう窘めつつも、幼子が好きな錦糸卵を分けてやることも忘れない。

 

 本当の兄弟のような二人を微笑ましく眺めていると、周囲が俄かに騒がしくなった。気づけば談笑していた親子連れやカップルは姿を消し、店内にいるのは攘夷党に関係のある者たちだけになっていた。

 

「……長谷川さん、ちょっと……」

「え、あ、ああ……」

 

 剣呑な雰囲気は長谷川たちがいる奥まった座敷まで伝染して、不安げな子どもが泣きべそをかいてぐずりだした。まだ幼い少年も、部外者である長谷川も危険を伴うことに首を突っ込むことは許されず、結局無言の圧力に負けて慌ただしく店を後にすることとなった。

 

 少年は子を連れて世話になっている商家へ戻ると言う。拐しを危惧した桂は二人の傍に腕の立つ者をいさせるように言付けていた。三人が連れ立って去っていくのを見送って、長谷川もまた帰路に一人で――申し出られた用心棒を固辞して――ついた。屈強で強面の男性と共に歩くのはちょっと遠慮したかったし、考えたいこともある。

 

「伊佐和屋、伊佐和屋……どこで聞いたんだっけなあ……」

 

 漏れ聞こえたその名は、確かに長谷川にも聞き覚えがあるものだった。だが一体どこで。入国管理局に勤めていたころかもしれないし、或いはその日暮らしに落ちぶれてから耳にしたのか。どんな場面でどのような評価と共に耳にしたのかも思い出せないのに、何となく胸が不安にざわつくのは先ほどの党員たちの振る舞い故か。

 

「心配だなあ、ヅラっち……」

「ヅラがどうかしたのかよ」

「のわぁっ!? ぎ、銀さん……」

 

 いきなり耳元に吹き込まれた声に、本気で長谷川は驚愕して仰け反った。地を這う耳慣れない低音は確かに聞き慣れた友人のもので、だからこそその声の持つ剣呑な響きにぞっと鳥肌が立つ。恐る恐る振り返ると、あまりに昏く凶暴な、それでいてどこか縋るような必死さを持つ赤い目が長谷川を強く射抜いていた。

 

「長谷川さん、もしかしなくてもヅラに会ってんだろ? 今の口ぶりはそうだよなぁ、あいつの居場所知ってるんじゃねえのか?」

「ま、まいったなあ……」

 

 うろうろと落ち着かず視線を巡らせながら、長谷川は桂の言葉を思い出していた。この銀時の様子を見てしまうと、何故あんな――潜伏場所を告げてくれるな、なんて――頼みごとをしたのか何となく予想がつくというものだ。現在の自分の立場を鑑みれば、ここで銀時にそれを言っていいわけがない。

 

 それはわかっているのだが。

 

「長谷川さん……?」

「わかった、わかったから! 木刀はナシで!!」

 

 鬼気迫る銀時に長谷川はあっさりと負けた。とりあえず案内するから、今にも抜刀しそうな姿勢は改めて、と懇願すればひとまず身の危険を感じるほどの不穏さは去っていった。脳内で懸命に桂に詫び、銀時と連れ立って道を引き返すことにする。あちらはあちらで何やら立て込んでいたようだが、そんなことを今の銀時に伝えることなど恐ろしくてできる訳がなかった。

 

 歩き始めても銀時は何も言わない。沈黙のあまりの重さに、すぐさま長谷川は耐えられなくなった。目についた銀時の手持ちの品について、とりあえず尋ねてみる。

 

「……そういや銀さん、それ何だ?」

「あー、なんか果物の詰め合わせだとよ」

 

 ほら、と風呂敷包みを軽く解いた銀時が見せたのは屋号の印が入った桐箱で、果たしてそこには、先ほどの問いの答えが記されていたのだった。

 

「ひッ、いっ、い……」

「ひい?」

「伊佐和屋だァーッ!!」

「なんだよ!? これは俺がこっそり食うんだからな、やらねーぞ!!」

 

 一つ思い出してしまえば、あとは引き摺られるように記憶が戻ってきた。将軍家の御用達となりながら、決して絶えることのなかった――人買いに纏わる――黒い噂。

 

「そうか、そうだったのか……」

 

 娘たちの失踪と伊佐和屋、そして奥琊は繋がっている。そして恐らくは、伊佐和屋と裏で関わりのあるあの会社も。

 

「おーい長谷川さん? ぜんっぜん話が見えないんだけどォ?」

「話は後だ!!」

「っオイ!」

 

 早く、桂に会わなければ。駆ける足が縺れそうになっても、腫れた喉が焼けつくように痛んでも、長谷川の足が止まることはなかった。

 

 

***

 

 

 桂が身に着けていったという発信器からの情報が途絶えて久しい。党員たちを焦らせる理由はそれだけではなかった。

 

「失礼します、エリザベスさん!」

『どうだった』

「やはり、見当たらないと……」

 

 党員の表情が優れない。同志の一人から幾松を見失ったと連絡が入ったのはつい先ほどのこと。連日の活動で疲れ果てていたのは誰も彼も同じで、うっかり集中を欠いて目を離した隙に彼女の姿は雑踏に掻き消えていたという。ただ人ごみに紛れただけならいいが、桂とも連絡がつかない今、楽観視することはできない。焦燥に歯噛みする党員たちのもとに、階下から一本の電話があった。

 

「なんだ、この忙しいときに……!」

『取らなくていい』

「え?」

『すぐにわかる』

 

 エリザベスの言うとおり、それを取るか取らないかのところで、すでに客人二人は上がってきていた。呆気にとられる面々には目もくれず、息も絶え絶えの長谷川が、前置きを全てかなぐり捨てて核心を口にした。

 

「伊佐和屋。奥琊と繋がってたんだろ」

「なぜそれを……!」

「んでもって伊佐和屋は、“菱野屋”と繋がってる」

「……オイ、伊佐和屋ってこの果物問屋だろ、そんでもって菱野屋っつうのは海運会社じゃねーか。そんなとこがなんであんな人を食いモンだと思ってやがる天人と関わってるってんだよ」

 

 どんな危ないことにまた首突っ込んでるんだ。全然話が見えねェだろーが。不安を苛立ちに変えて銀時は小さく吐き捨てた。経緯を知らないなりにわかるのは、幼馴染がまたも危ない橋を渡っているということ。

 

「とにかく、ヅラっちに会わせてくれ」

「そ、それが……」

『連絡がつかん。というのも……』

 

 詰め寄られ狼狽している青年と長谷川達の間に割って入ったエリザベスが、プラカードを繰り出して事情を説明し始める。それを目で追う銀時の表情がどんどん険しくなっていって、纏う冷えた気配に若い党員たちが尻込みしだした。

 

「何やってんだよあのバカは……よくオメーらも一人で行かせたな」

『言って聞いてもらえるなら苦労しない』

「あっそ……」

「とにかく! 今回の失踪事件に奥琊が関わっていることは坊主の話でもわかってただろ。問題は奥琊を手引きしたのが誰か。その一つが伊佐和屋だったってことだよな、さっきアンタたちが深刻そうに囁きあってたのを聞いた感じだと」

『あ、ああ』

「伊佐和屋が裏で妓楼を経営し、札束で頬を叩くようにして寒村や没落した武家から若い娘を買い集めていたのは、俺たち政府方の人間にとっては周知の事実。ついでに、奴らが江戸に進出するにあたって菱野屋と秘密裏に繋がったってのも言わば公然の秘密」

 

 長谷川の言わんとすることを理解し始めた党員たちが顔色を変えた。

 

「じゃあ、娘たちはまさか、」

「そうだ。地球を追放された蛮族と片田舎の豪商風情が江戸で何をできる。この計画は菱野屋の存在なしには成り立たない」

『娘たちは船で北か西に送られていたと』

「ああ。何も江戸のターミナルなんていうそれなりに管理体制が整ったところからでなくともいい。日本を出てさえしまえば金さえ積めばなんでもできる、もっと杜撰で腐った宇宙港は山ほどあるからな」

「港に人を遣ります!」

「こっちは菱野屋の出入港記録を調べて来ます!!」

 

 ようやく見えてきた手がかりに、俄かに男たちが活気づいた。溜まりに溜まった疲労を忘れたように半数ほどが慌ただしく飛び出していき、部屋ががらんとして寂しくなる。銀時たちには見えないように、エリザベスがいくつかプラカードを掲げて党員に指示か何かを出していた。

 

「長谷川さん……実はすごかったんだな」

 

 知らなかったわ。流石の銀時にさえ口を挟ませなかった長口上を終えて畳にへたり込んだ長谷川は口の端を歪めて薄く笑った。

 

「……すごかねぇさ……あのときの俺が何をした。何もしないのが――接待を受け袖の下を納め、限りなくクロに近いグレーを見逃すのが――俺の仕事だった」

「長谷川さん……」

「銀さん、まだ何にも解決しちゃいねぇ。ヅラっちたちが追っていた事件の方は多少は動いたかもしれねぇけど……肝心のヅラっちは今どこにいるんだ? そんなことも俺たちはわからないんだからよ」

「……ヅラは、簡単にどうこうなるタマじゃねえよ」

 

 だが桂は今、恐らくただならぬ事態に陥っているだろう。こういうときの銀時の悪い予感は外れたことがなく、先ほどと同じ、苛立ちに近い何かがじくじくと銀時の胸を刺した。

 

「駕篭が来ました!」

『行くぞ』

「ちょ、オイ、お前らのほうだけなんで話が動いてんの」

 

 桂が銀時のもとを去った朝、あの番組を見ていた者は攘夷党にも少なくなかった。恵比須顔で薄汚い言葉を吐いた男が権力をふるう場所――菱野屋――について、エリザベスは密かに調べさせていた。報告に上がっていた中で最もきな臭いのは、この一族の息がかかっているというある料亭。

 

 手配された車に乗り込むエリザベスに続いて、当然のように銀時は車内に身体を滑り込ませた。

 

「ついでに万事屋まで。……しょーがねぇからオメェらの用事がすんでからでイイわ」

『……好きにしろ』

 

 

***

 

 

 街灯の光が車内に差し込んで、党員たちのやつれた顔を撫で照らしていく。表情が読めない隣の宇宙生物までなんとなく疲れて見えるのは、全身が毛羽立っているうえ所々で糸のような何かがほつれているからだろうか。人の上に立つくせに桂は妙なところで人に任せるのを嫌うから、こいつら以上に疲れ果てているんだろう。ぼんやりと銀時は桂の顔を思い浮かべ、不機嫌に一つ舌打ちした。

 

 不幸中の幸いなのは、今日江戸城ではそよ姫の生誕を祝す盛大なパーティーが開かれていたことだった。幕府の要人や各星の大使らも招かれたその宴が滞りなく恙無く行われるため、真選組や見廻り組の多くは出払っているはずだ。江戸の中心を外れたところを猛スピードで走るこの車を気に掛ける者はいない。

 

 沈黙が支配する車内で、突然エリザベスがプラカードを掲げた。

 

『約束しろ。殺すな』

「……は?」

 

 訝る銀時の目の前に、次の一枚が示される。

 

『殺せば事件になる。手間だろうが』

「……“死んだほうがマシ”は?」

『アリで』

 

 死体は口をきかない。物言わぬ被害者があれば警察は犯人を捜さざるをえない。となれば捜査がいずれ桂一派に辿り着くことは明白だった。

 

 だが死ぬほど恐ろしい目を見た“不幸な怪我人”たちはどうだ。彼らは一様に口を噤み、その力でもって公権力に手を引かせるだろう。圧倒的な暴力で叩き潰し報復に怯えさせることでしか、よく回る肥えた舌を本当の意味で沈黙させることはできない。とは言えそれは、銀時にとって容易いことなのだが。

 

『まもなく着く。ゆめゆめ忘れるなよ。殺すな』

「ああ……」

 

 そのとき、夜の静寂をいくつもの光が裂いた。

 

 遅すぎるその花を、桂は見ているのだろうか。

 

 

***

 

 

「いやッ! いやだあぁっ!! も……もう、やめっ、え……」

 

 薄暗い廊下を、絶望と桂の絶叫が満たしていた。人払いをしてあるのだろう、料亭の入口や周辺にいた見張りを叩きのめしてまえば、忌々しいほどに広い邸内には猫の子一匹いなかった。気配を殺すことも足音を忍ばせることも忘れて、銀時は上階最奥の一室へと突き進む。その後ろにはエリザベスが続いた。

 

「お願いしますっ! ご、後生ですから、――――!!」

 

 あと五歩も駆ければその部屋に辿り着く。そのとき二人に聞こえたのは――口走っている言葉から、どうしてもそう思えなくても――確かに桂の声だった。あの高潔な侍が、あまりに惨い媚びの言葉を紡がされている。それを聞いた下劣な輩は心底嬉しそうに嗤う。

 

 沸騰した血を宥める術もなく、気が付けば銀時は凌辱の舞台の闖入者となっていた。

 

 締りのない呆けた顔を晒している薄汚い男どもが、五人。気が振れたかのように叫ぶ桂を取り巻いていた。その隙間から、泣き喚く桂を後ろから抱え上げ、腰をかくかくと揺する男が見える。

 

 完全に人を寄せ付けぬようにしていたところに乗りこんできた銀髪の青年と奇妙な宇宙生物に、呆気にとられた彼らはほとんど動きを止めてしまった――最も、即座に反応できたところで待ち受けていた結果は変わらなかっただろうが。

 

 彼らが意識を失う前に見た光景はどれも大して変わらない。

 

 憤怒の形相の、とても人とは思えぬ存在が、凶刃を振り下ろす姿だった。

 

 その思考の片隅にエリザベスの言葉が残っていたのは、男たちにとって僥倖であったと言える。倒れ伏し、半死半生で呻く血塗れの人間に一瞥も追撃もくれることなく銀時は桂に駆け寄った。エリザベスの腕の中の痩身はぐったりと力を失い、ぞっとするほど青ざめて汚された頬に睫毛の影が落ちていた。

 

「おい! ヅラっ……桂! 大丈夫か、目ェ開けろ!!」

「うぁ、う……?」

 

 凌辱を尽くされた身体に回された腕は無二の相棒のもの。奉仕を、ときには自慰も強いられた手を握りしめるのは、強く思う唯一の人のもの。

 

 乱れに乱れて聞くに堪えない哀願を吐き散らかした挙句、汚辱の瞬間を他ならぬ二人に見られてしまった。薬物に狂わされ混濁している中でなお、身を引き裂いたのは正気を塗りつぶす絶望だった。

 

「ひ、っあ、あ……」

「オイ! ヅラ!? しっかりしろ!!」

『桂さん!!』

 

 喉が引き攣れて、引き絞られて、か細く掠れた吐息が漏れる。ひゅ、と一つ息を吸うと、戦慄いていた唇からは喉を裂くような悲鳴が飛び出した。我武者羅に跳ね回る身体がエリザベスを強かに殴り、銀時の腹を蹴りつける。手の付けようがないほどに暴れる桂に何一つ言葉は届かなくて、銀時は細い項に手刀を落とした。

 

 見開かれた目がおもむろに閉ざされ、涙がぼろぼろと零れ落ちる。仰け反った身体から力が抜けて、ゆっくりとエリザベスの腕の中に戻っていった。

 

『天パ。その袋を寄越せ』

「……ああ…………」

 

 持って来ていたバスタオルで、あらゆる体液に塗れた身体をエリザベスが拭う。血の気のない青白い肌の、鬱血や噛み傷や蚯蚓腫れが目に痛い。脱ぎ捨てられ、部屋の片隅に捨て置かれた襦袢は無事だったようだ。折檻に使われたのであろう、妙に縒れて血の付着した帯や白濁に汚された羽織と着物はエリザベスが回収を済ませていた。意識のない桂に襦袢を着せ、その上に銀時は自分の着流しを羽織らせた。流水模様のそれの中で、痩せた身体が頼りない。

 

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。近づいてくるそれは確かにここを目的地としているのだろう。こちらに繋がりかねない遺留品を残してはいないか、エリザベスがただでさえ丸い目を皿のようにして部屋中を見まわしている。疲弊しきった身体に障らぬよう、銀時は桂を抱き上げた。大きなポリ袋を肩に掛けたエリザベスは、隣室で気を失っていた幾松の拘束を解いて抱きかかえる。

 

『行くぞ』

 

 裏口から滑り出した車に随分と長く揺られる間、誰ひとりとして口を開く者はいなかった。

 

 

***

 

 

 ベッドサイドに一脚だけ用意された椅子には銀時が腰かけた。

 

「ワリーな、ペンギンオバケ」

『ペンギンオバケじゃない、エリザベスだ』

 

 いつの間に主人の口癖が移ったのやら、プラカードで一発銀時を叩いたエリザベスは、桂の傍らにいるでもなく戸口に戻っていった。攘夷戦争時代に軍医をしていたという、攘夷党馴染みの老医はもうとっくに帰路についた。安全性と機密性を最大限に考慮したこの場所は部屋と言うよりは座敷牢とでも呼んだほうが相応しく、じいんと痛い静けさが二人の耳を打つ。時折息を荒げ悶える桂の声だけが、底冷えする空間に響いては消えた。

 

「寒ぃ……」

 

 熱帯夜の蒸れた空気はここには届かないようだった。猥俗な男たちの血に濡れた身体が冷たい。血が煮え滾るほどの激情すら去った今、銀時はむしろ寒さに震えていた。

 

 何も言いたくなどないのに、気付いたら言葉が飛び出して止まらない。右手で桂の手を握り、左手で己の右腕を鷲掴みにして、つらつらと語り始める。

 

「ヅラ……? 俺、おめぇに触れてた野郎ども軒並み半殺しにしちまったよ」

 

 引き攣れるような笑いが喉から零れた。

 

「背中からぶっ叩いた奴、あいつはもう死ぬまで歩けやしねぇだろうな。どたまに振り下ろしたあの野郎は、少なくとも二目と見れねぇツラになったのは確かで……多分目ん玉も片方は潰れてる。ちゃっちい小刀振りかざしてきやがって、こいつで右腕振り払った最後の奴ぁ……一生利き腕なしだな」

 

 目だけで愛用の木刀を探そうとして、ここに着いてすぐ血塗れのそれを処分したことを思い出した。また通販で注文しなければ、と場違いなことを一瞬だけ考える。

 

「他も似たようなもんだ、どいつもこいつもみんな不具者にしちまった……それで……それでもっ……俺、は、」

 

 殺せなかったことを悔やんでるんだよ。どうしようもなく。

 

 僅かの逡巡も見せずに男たちに獲物を振り上げておきながら、そのことに欠片ほどの悔悛も覚えることはできなかった。むしろ悔やむのは、桂に毒牙を突き立てた蛇どもをなぶり殺しにし損ねたことばかり。身を灼きつくさんとする憤怒と後悔。憎しみで振るったものはあまりに重かった。

 

「薄汚れんな……って。言ったのは俺なのにな」

 

 もう一度、縋るように幼馴染の手を強く握る。氷のように冷えているのは桂の身体だけではなかったらしい。冷たい掌二つ、温もり一つも共有できない。俯いた頭を、もう一度強く叩かれる。

 

『暫く代わる。風呂に入れ』

 

 見せられたプラカードに、反駁する前にもう一枚。

 

『汗くさい。血なまぐさい。陰気くさい。あとオッサンくさい』

「……テメーにだけはオッサンって言われたくねーんだよ」

 

 それでも一応白旗を上げて風呂に入れば、湯上りには着心地のいい着流しと、それから瓶のいちご牛乳。銀時の好むどの甘味よりも甘ったるく締りのない顔で、このペットを溺愛する桂の気持ちが少しだけわかる気がした。

 

 こんなときなのに、口をつけた好物はとろりと優しい甘さをしている。

 

 もう一度桂の傍らに戻った銀時は、熱を取り戻した手でもう一度、薄い掌を包み込んだ。

 

 覚悟していなかったわけではないが、現実の重みが銀時すらも押し潰そうとしていた。

 

「銀ちゃん、ヅラに何があったアル!」

「何もねーよ、おめーらが心配するようなことは」

「あの晩、銀さんは桂さんのところに行っていたんでしょう? 桂さん、危ない目に遭ってたんじゃないんですか!?」

「大したことねぇって言ってんだろ……またすぐアホヅラ下げてここに来るって……!」

 

 自分自身に言い聞かすようなその声に、二人の追及が止んだその隙をついて銀時は万事屋を後にした。仕事も受けずほとんど帰りもせず桂のもとに通い詰めている以上、銀時には説明する義務がある。もう少し自分の心の整理がついてから、とそれを三週間も先延ばしにしていた。

 

 ぴしゃりと閉められた引き戸の音に神楽と新八は一瞬だけ首を竦ませて、それからゆっくり顔を見合わせて頷いた。取って返した押入れで覗き込んだのはコンセントに繋がれた液晶パネルだ。

 

「昨日のうちにブーツに仕込んどいて正解だったアルな」

「先週のうちに源外さんに注文しといたのもね」

 

 時間にして二時間強。ぐねぐねと用心深く寄り道を繰り返していた液晶上の点滅が一点で止まり、ゆっくりと光が消えるのを待ってから、二人は万事屋を飛び出した。

 

 点滅は屯所や万事屋から近いこの界隈では止まらなかった。スクーターで向かった銀時と違い、二人にとっては電車やバスを乗り継がなければいけない距離。店先を掃いているたまに調べた住所について尋ねると、水道屋のようですね、と答えが返ってきた。

 

「ですから、エリザベスさんの許可がない方をお通しするわけには……」 

 

 顔見知りの党員二人は困惑しきりだった。いや、しかしその、でも、と繰り返すばかりで、一向に話が進まない。できるだけ気が弱そうなのをひっ捕まえて声をかけたとは言え、新八も神楽もイライラし始めていた。

 

「オメーもわかんねーヤツアルな。そんなだからいつまでたってもマダオのフリーターアルよ」

「僕たち、銀さんに言われてきたんです。どうしても必要なものがあるから至急届けてくれって。それだけ渡してすぐに帰りますから!」

「さっき銀ちゃんに携帯で連絡したから大丈夫ヨー。もうピアノ線引いて待ってるアル」

「神楽ちゃん引くのは手ぐすねだから、首とんじゃうから。こないだの探偵ものみたいに」

「こいつらのクビなんかどうでもいいネ」

「あっ、ちょっと……!」

 

 不審げというよりは戸惑っている党員たちの視線が僅かに向かった先に、ずかずか二人で進んでいった。点滅が消えていった時点で銀時が地下に降りたことは予測がついている。廊下に並んだ書棚の一つだけ並べた本が乱れているのに神楽が手をかけ、掛け金を折る勢いで回して隠し階段を顕わにする。中に入ったところで新八が器用に竹刀を閊えさせた。これでしばらくは開かないだろう。

 

「桂さん、どこにいるんだろう」

「ここに隠れてるのは間違いないアル」

 

 上の屋敷と同様だだっ広い地下はしいんと冷えて少し寒い。油断すれば口から飛び出しそうになる不安を押し殺すように、二人は唇を噛んで歩いた。

 

 何となく曲がった先の部屋から、誰か話しているのが聞こえてきた。

 

「……け! 好き嫌いばかり言っていては立派な侍になれんぞ!」

「あの声は……!」

 

 聞き慣れた声がしゃんとして誰かを叱りつけているのを聞いて、俄然二人は元気づけられた。なんだ、元気そうじゃないか。安堵に目を潤ませた神楽が一足先に駆け出したのを慌てて新八も追う。

 

「ヅラァ!!」

「桂さ……ん?」

 

 神楽が蹴り倒した襖の向こうでは、桂が一人、布団の傍らの脇息に凭れていた。

 

「晋助……なんだってお前は青菜を嫌うんだ。ホウレン草はいいぞ。特にお前のように貧血気味のやつは必ず摂らねばならん」

 

 床についている者とは思えないほど、声も顔色も面差しもしっかりとしている。普段と全く変わらないまま、桂は二人の目に見えない誰かと話し続けていた。食う食わぬの押し問答らしきものはいつの間にか終わり、お浸しに散らす鰹節から猫の話に映っていた。

 

「そうだお前、最近ミケ殿を見かけぬがどうした。何ィ! 産気づいただと!? そうかそれはめでたいな……犬のお産は安産と言うが猫はどうなのだろうな……今度先生にお聞きしよう」

 

 何か滋養になるものを持って行った方がよいか。いやしかし一体何がいいのやら、とぶつぶつ続ける桂が神楽と新八の視線に気づくことはない。

 

「ヅラ、誰としゃべってるアルか……」

「てめぇの頭ン中のお友達だとよ」

 

 いつの間にか後ろに立っていた銀時に、二人同時に縋りついた。言葉にしきれない感情に押し流されて、先に泣いたのは神楽だったけれど、それを慰めることもできず新八もぼろぼろと涙を流す。

 

「もうちっとしたら説明するつもりだったんだけどな。まさか源外のじーさんにこんなもん頼んでまで着いてくるたぁ思わなかったわ。ま、俺も迂闊だったけどよ、今さっき気が付いてそりゃビビったんだぞコラ」

「銀、ちゃ……」

「泡食ってペンギンオバケと逃げる算段しちまったよ、その後ジジイお手製の発信器だって気づいたけど。挙句にお前ら上で騒いでくれてよー、あの隠し扉直すの大変だと」

「銀さんっ……!」

「…………悪かった」

 

 言葉にして桂の現状を伝えるのが怖かった。口に出してしまえば、未だ銀時自身も受け止めきれずにいる事実に押し潰されてしまいそうで。そう続けたら、二人は何を思うだろうか。

 

 背中をゆるゆると摩られている神楽と新八はどこまで銀時の話を聞けているかわからない。大声を上げて泣く人間がいても、目に見えない友と話している桂の様子は変わらなかった。高杉の家への通い猫のお産について、懸命に彼らの師に報告している。

 

「誰かなんか出してくれんだろ。オラこっち来い」

 

 肩を抱いて歩き出せば、ぐずぐず鼻を鳴らしながら二人も歩き始めた。

 

「なんで止めねえんだよ、クソオバQ……!」

 

 小さな非難の声は他の誰の耳にも届かなかった。

 

 

***

 

 

 厨房は上のそれに比べたら小さなものだったが、それでもここから出ずに生活するのに十分な機能を備えていた。泣き腫らした顔を洗面所で洗ってきた神楽と新八は、厠や浴室も地下にあることに気が付いた。

 

「転生郷って、あの……?」

 

 全てを話すことなど到底できはしないが、全く説明もせずに帰すこともできないと判断したらしい。小さな子どものように両手で包んで湯飲みを持った新八が、現れた党員の説明に唇を歪めた。隣でたった一つのどら焼きを持て余す神楽も殆ど同じ表情を浮かべている。

 

「現場の状況や遺留品、血液検査、容態などから総合的に判断した結果、それしかないと。桂さんに使われたのはあの薬だ」

 

 世界が明滅してうねる感覚。自分が自分でなくなっていく感覚。尋問目的だった二人が多量に吸わされることはなかったが、それでもあの薬が齎した悍ましさや恐怖は忘れようもなかった。

 

「でも、ハム子だってなんだかんだ良くなってたアル! ヅラだって、」

「一回だって死ぬときは死ぬ、狂うときは狂う。ましてや転生郷はその中毒性や危険性から桂さんご自身が江戸から排すためにご尽力なさっていたほどのもの」

「そんな……」

 

 俯きかけた二人の前に、いつのまに現れたのか、更にエリザベスがプラカードを掲げた。

 

『桂さんを救出した場所からは空の注射器が見つかった』

「どういう、ことですか?」

『一般的にあの手の薬は吸入するよりも静脈に注入することによって格段に効果が高まる』

 

 絶句している二人の前に、もう一枚。

 

『信頼できる医者にも見せた。単刀直入に言うが元に戻る見通しは立っていない』

 

 せっかく何とか止まっていた涙が、再びじわりと浮かび始めた。それなりに肉刺や胼胝や傷のできた、それでもまだ多分に子どもらしさを残した手を取って、エリザベスがそっと封筒を載せた。リーダーへ。新八君へ。墨痕鮮やかなそれは、確かに言付などで見慣れたものだった。

 

『教本の中に挟み込んであった……渡してほしいとあの人が思っているのかは知らん。こちらの自己満足だ』

「っう、く……う、」

 

 とたたっ、と。落ちた雫が筆跡を滲ませる。縋るには脆すぎるその紙を引き裂かぬように、神楽と新八は懸命に激情を抑えんとした。あまりにも稚い小さな唸り声に、目頭を押さえた男たちが数人席を外す。腰かけた二人の頭を後ろから抱いている銀時にも、同じ封筒が差し出された。

 

「読まねぇよ」

 

 はっきりとした低い答え。ますます涙が零れ落ちるのも厭わずに二人が銀時を見上げても、その面差しまでは窺えなかった。ふざけてんじゃねーぞこのオバケペンギン、と呟く声は怒りに震えて這いずったけれど、一つ深呼吸して続けた声は殆どいつもと変わらぬものだった。

 

「何、勝手にアイツの個人情報? っつーか私的で純情な感情? ばら撒いちゃってるんですかコノヤロー」

 

 受け取ることを拒まれた和紙の封筒が、エリザベスの手中で所在無げに一つ揺れる。あのなぁ、と呟いた銀時の声は、出来の悪い子に何か言い聞かす年長者のそれだった。

 

「人斬りに背中ばっさり斬られようが総一郎君にバズーカぶっ放されようがガンダムのパチモンごと爆破されようが死なねぇのがヅラ君なの。味方いねぇ物資ねぇ敵はわんさかの戦中なんかもっと酷ぇ怪我してたけど死ななかったのがヅラ小太郎君なんです」

 

 或いはそれは、自分の為に言っていた言葉かもしれない。

 

「遺言だか遺書だか知らねぇけど気が早いんだよ、早漏なのはベッドの中だけにしとけやクソペンギンヤロー」

『クソ天パ……』

「クソ電波の受信状況が悪くなったぐれーで狼狽えてんじゃねえよ。あんなの電化製品と同じでぶっ叩きながら騙し騙し使うもんだろが」

 

 そこにある懸命さに気が付かなかった訳ではない。それでもなお、桂を信じようとする銀時の強さに、心を折られずに立っている銀時の姿に、誰もが勇気づけられた。電化製品は酷いアル、そんなに上等なモンじゃないネ。銀さんも神楽ちゃんも言い過ぎですよ。そう窘める二人の声に背中を押され、銀時はエリザベスに啖呵を切った。 

 

「アイツの作った組織を護りてえなら勝手にしろ」

 

 俺は俺のモン取り返してみせる。

 

 それは確かな誓いだった。

 

 

***

 

 

 一時は半ば開店休業状態になっていた万事屋だったが、子どもたち二人は食べさせていかなければならない。エリザベスを始めとした攘夷党の面々からはある程度まとまった金額を提示されていたが、銀時も神楽も新八もそれを受け取る気はなかった。あちらも余裕があるわけではないだろうとも思ったし、何よりも仕事として桂のことを請け負っているのだと考えたくなかった。

 

「新八、お前明日早いんだろ。今日はもう帰れ」

「銀さんこそ疲れてるんじゃないですか。一昨日の晩、仕事終わってから詰めっぱなしでしょう」

 

 全員が定期的に一所に通い詰めることによって生じる危険性を考慮して、新八と神楽は週に二回以上ここを尋ねることを禁じられている。その分、日銭を稼ぐこと桂の傍にいること以外の全てを捨てた銀時は万事屋で横になることが殆どなくなった。

 

「神楽ちゃんも言ってましたよ。考えてみたら、僕たち夜に桂さんの傍にいたことないって……」

「ガキどもは夜更かしするもんじゃねーからだよ」

 

 不服そうに眉を顰めた新八は、けれど心得たものでそれ以上深入りすることはない。僕たちに話せるようになったら、ちゃんと話してくださいね。そう言うと律儀に桂に挨拶して立ち上がった。

 

「明日の夕方、仕事入ってますからね」

「わーってる」

「ヅラじゃない桂だ、人の名前も覚えられずよく商人が務まるなバカ本。大体お前はいつも……」

 

 遠ざかっていく足音を気にも留めずに、今日の桂は坂本と下らない会話に花を咲かせている。

 

 幕府出資の電車に揺られながら、新八はつらつらと考えていた。銀時がいたりいなかったりなので、神楽は万事屋ではなく恒道館で寝泊まりすることが多くなった。ジャンプを買うことも遊興に勤しむことも忘れて仕事をしては桂のもとに通う銀時や、週に一回必ず桂に会いに行く新八と違い、神楽の足はあの屋敷から遠のく一方だった。

 

――ぱっつぁんも銀ちゃんもエリーもいなかったときのコトよ。

 

 定春の背に顔を埋めた神楽が、蚊の鳴くような声で教えてくれたのはもう先月のことになる。

 

――“リーダーの作るカレーは世界一うまいな”って。

――神楽ちゃん……。

――ワタシ、ヅラの隣にいたアルよ……。ずっとこっち見るの待ってたアル。でもずっとヅラは一人で“ワタシ”としゃべってたネ。

 

 ヅラ、どこに行っちゃったアルか。誰に尋ねるでもないその言葉が、主人のいない万事屋に響く。

 

 答えはいまも見つかっていない。

 

 

***

 

 

『桂さんを頼む』

「おぅ、明日はテメーだからな。さっさと寝とけ」

 

 真夜中の桂の傍らにいるのは銀時かエリザベスと決まっていた。あの姿を部下や子どもたちに見せるのはあまりにも忍びなかったし、時折酷く暴れる桂を抑え込まなくてはならなかったからだ。

 

 先生。晋助――少し成長して高杉のときもある。坂本。エリザベス。リーダーと新八君。幾松殿。長谷川さん。ママとアゴ代殿とてる彦。さっさん。お妙殿と九兵衛殿。月詠殿。花野アナ。それから銀時の知らない志士たちや、死んでいった戦友の名。

 

 真選組の面々や松平公とその娘、更には将軍さえ桂の“会話”の中に登場すると言うのに、銀時が日中その名を呼ばれることはなかった。

 

 その癖、眠りに落ちた桂はいつも、苦悶に喘いでは銀時の名を口にした。戦中さえ耳にすることがなかった、慟哭と哀願。痛い、苦しい、助けてくれと啜り泣く桂など、銀時はこれまで見たことがなかった。

 

「行、くなっ……銀時……!」

 

 むしろじっとりと蒸し暑いこの部屋の中で、上掛けを握りしめた桂はガタガタ震え苦しんでいた。寒い冷たいと譫言を繰り返すのは、敗戦後のあの朝を思い出しているからだろうか。布団から離れた手が一瞬だけ宙を彷徨って、そのまま畳に落ちる。幾度も桂の指先に掻き毟られたそこは、すでにい草がぼろぼろになっていた。

 

 噛み締められた歯が軋む耳障りな音がした。薬物が齎す苦しみのあまり上掛けを跳ね飛ばし、髪を振り乱して暴れる桂をどうにか銀時が抱き留める。喚き立てて叫ぶために開かれたであろう血の滲む唇が、何故だか目の前の腕に喰らいついた。獣のように唸る桂を、しかし銀時には宥めるすべがない。

 

「っヅラ……大丈夫だ、ここにいる。もうどこにも行かねぇから」

 

 右腕に歯を突き立てる桂の口内は恐ろしいほど熱く乾いていた。上体を捻って何とか左手に取った水差しを、我武者羅に振り回される腕が弾き飛ばす。壁に叩きつけられたそれが儚くなる弱い音で、今さらのようにエリザベスが入ってきた――とは言えもう心得たもので、代わりのボトルを差し出すとすぐに出て行ってしまったけれど。

 

 明け方近くなって、無理に干させられた水分とその中に溶けた薬の力を借りて、ようやく桂は浅い眠りについた。指の跡と歯型がくっきりと残る腕にはしがみついたままだ。

 

「桂……」

 

 大使館前での作為的な再会から随分経つが、桂が銀時を責めたことは一度もなかった。その時の重みの分だけ、後悔の念が強くなって銀時を苛んだ。

 

 何度悲しみや苦しみの声を飲み込んできたのだろう。或いは憾みの声を。

 

「俺は、辛い思い出の中にしか残ってねぇのか……?」

 

 細く儚い寝息以外に、聞こえてくるものはない。

 

 

***

 

 

 そのあくる朝、神楽は久方ぶりに桂を見舞っていた。とは言えできることは何もないので、口元に微笑みを浮かべた桂がつらつらと口上を述べるのを見ているしかない。党員に出された大福をのろのろ口に運びながら、遣り切れない気持ちだけが胸に積もっていく。

 

「長谷川さんのところには子がおらんのか……」

 

 今日の話相手は長谷川らしい。目を細めて穏やかな笑みを浮かべた桂が、血を分けた子とはどのような存在だろうと想像を巡らせている。

 

「己が血を引く子を成せば悔いなく死んでいけるというもの。長谷川さんの御内室は……? そうか……ゆくゆくは、か。そうだな」

 

 まずは安定した仕事を見つけて迎えに行かねばな、攘夷志士などどうだ。くだらない言葉の応酬が聞こえているのは桂だけで、傍にいる神楽にはただ孤独感だけが募っていく。こちらを見ればいい。いつものように電波を巻き散らかして、散々万事屋を引っ掻き回せばいい。そうしたら、煎餅でも大福でも口に放り込みながら思い切り馬鹿にしてやれるのに。

 

 ささやかで途方もない願いは口に出すことすら叶わず、神楽の視線の先の桂は思案顔を浮かべていた。腕を組んで相槌を打つその姿は、万事屋のソファーに腰かけていたときと何一つ変わらない。

 

「……確かに、それはそれで違う悔いが残るか。死ねなくもなろう」

 

 長谷川さんの言うとおりだ。優しく、それでいて寂しげに笑った桂は少し口を噤んでいたが、やがて問いかけに答えるように口を開いた。

 

「俺か? ……いや、俺は子を成すことなど考えておらんよ。明日を知れぬ身で無責任ではないか。子に対しても、その母となる女子に対しても」

 

 限界だった。積まれた大福にも目をくれず、神楽は部屋を飛び出した。

 

 向かう先は銀時がいる食堂だ。

 

「銀ちゃん!!」

「なんだ神楽。茶でも、」

「読んでやるネ、銀ちゃん」

 

 突然飛び込んできた神楽の言葉は、思いがけない、それでいてどこかで予想しうるものだった。

 

「……いきなり何の話だよ」

「とぼけるナイヨ、エリーから渡された手紙に決まってるネ。あの後結局エリーからもらったんダロ」

「押し付けられたの間違いだろ。言ったじゃねえか、読まねぇって。読みもしねぇもん持ち歩くヤツがどこに、」

「持ってるアル! 銀ちゃんずっとヅラからの手紙持って歩いてるネ! 読まないなんてみんなの前で啖呵切ったクセに、いつも大切に持ってるアル!」

「……っ神楽、」

 

 子どもの直向きさが、銀時の心に刺さって抜けない。美しい青が歪んで、愛らしい顔をくしゃくしゃにして神楽は泣いた。鼻水まで垂らして泣いて、しゃくり上げながらも懸命に続ける。

 

「ヅラ……言ったアル、“子どもが生まれたら悔いなく死ねる”って! でもヅラは自分がそういうことできないってわかってるネ、自分にはやらなきゃいけないことがあるって! だから……悔い、残らないようにあの手紙書いたアル。自分の気持ちを、ヅラっていうバカが生まれてきて生きてきたっていうこと、ちゃんと残しておくために……!!」

「ったく、どいつもこいつもアイツを死人みたいに扱いやがって……。あれはそのうちヅラのアホ面の前で朗読してネタにしまくるために持ってるだけだ。言っただろ、死んでもいねぇやつの遺書なんて読めるかって、」

 

 その言葉に神楽が答えるより前に、部屋に入ってきたのはその桂の腹心であり、ペットであり、かけがえのない相棒である彼だった。

 

『では、今この瞬間の桂さんは生きていると言えるのか』

「エリー……」

『志を失くし、誰のことも忘れ、偽りの安寧に浸る桂小太郎は』

 

 

***

 

 

 本当に読むつもりなんてなかったのだ。桂が戻ってきたら、一発ひっ叩いてそれから突き返すと決めていたのだから。桂だってきっと、認めずにはいられなかったにしても宛てた当人に読んでほしいなどと思ってはいないだろうし。気を遣ったエリザベスが神楽を連れて退室したから、食堂には銀時一人だった。懐から出した手紙をゆっくりと撫でる。

 

――銀時へ。

 

 笑いながら、泣きながら、激昂しながら、感激しながら。大きな声で朗々と、咳き込みながら息も絶え絶えに。慕わしげに髪を撫でまわして、苛立ち紛れに肩を小突いて、快楽と悦びに頬を染めて。数えきれないほど呼ばれた自分の名が、見たこともない突き放した静謐さでそこに在った。

 

――銀時。お前がこの手紙を読んでいるということは、俺は志半ばで斃れたということだろう。

 

 三文小説かよ、そう思わず毒づくようなありきたりな書き出し。淡々とそれを言葉にする桂の声が聞こえてくる気さえした。

 

――お前にまで僅かな本心すら隠すことはあるまいな。本当のところ悔いがないと言い切ることなどできん。俺にはまだ成すべきことがあったのだから。まだ我々は、暁に辿り着いていないのだから。

 

 浮かんでは消える桂の声は、どこまでも優しくて穏やかで。ふざけんじゃねーぞ、クソッタレ、絞り出した罵倒が誰に届くこともなく消えていく。

 

――銀時、お前に再び逢うことができたのは、桂小太郎の人生の中で最も幸福なことの一つではなかろうかと俺は思うのだ。あの再会あればこそ、俺は何ら恥じることなく先生のもとへ逝ける。

――銀時、ありがとう。

 

 感謝の言葉の後、僅かに開いて続くのは、あまりにも酷な頼みごとだった。

 

――今でもお前が俺を友と思ってくれるならば、後顧の憂いを断つべく一つだけ頼まれてはくれないだろうか。……もし俺が、俺であって俺でない桂小太郎が生き長らえてしまったならば、その時はお前の手で。

 

 たとえば零した墨の一滴。もしくは涙に滲み、感傷に歪んでは掠れた一文字だってありはしない。

 

 あまりにもいつも通りの、流れるような美しい字だった。

 

――殺してくれ。

 

 五文字で終わったその一行に寄り添うようにもう一文。

 

――俺の亡霊が、志を死に至らしめる前に。

 

 日付のない手紙の終わりに、見慣れて聞き慣れた、それでいて実は呼び慣れることのなかった名が認められていた。  

 

「畜生……!!」

 

 怒りとも、悲しみとも、絶望ともつかぬ荒れ狂う感情に突き動かされるままに、銀時は食堂を飛び出した。 

 

「幾松殿の蕎麦は本当に美味いな! 最近ますます腕をあげたのではないか?」

 

 既に破れて穴の開いた襖を蹴倒しても見向きもしない。にこやかに話す桂は、今日も今日とてここにはいない誰かと語らっている。リーダー、そんなに慌てずともラーメンは逃げんぞ、と。朗らかな笑い声さえどうしようもなく憎たらしかった。

 

 衝動のままに振り上げた腕を左頬にぶち当てる。流石に言葉をとぎらせた桂が畳に倒れたのを、胸倉を掴んで起き上がらせた。

 

「ふざけんじゃねえ!」

「リーダー……いや、幾松殿? あ、れ……?」

 

 こうなってからずっと誰を見つめることもなかった桂だが、更にがくがくと揺さぶられ、なおのことどこを見ているのかはっきりしない。

 

 それがどうしようもなく腹立たしくて、痛かった。

 

 俯いた先、畳の縁にぽたぽたと雫が落ちては染みていく。それで初めて自分が泣いていることに気が付いて、けれど銀時は涙を拭うことすらできないでいる。桂を突き飛ばして逃げたいのか、手が腫れ上がるまで目の前の男を殴りたいのか、何もわからず呆けているこの男に縋りついて泣きたいのか、自分がどうしたいのかさえわからない――当然だ、本当はそのどれもしたくなどないのだから。

 

 掴み上げられた不自由な姿勢のまま、言葉もなく桂は瞬いている。その世界からは、いつしか幾松も神楽も姿を消していた。代わりに聞こえてくるのは限界まで押し殺した啜り泣きで、それがどうしようもない焦燥感と寂寞を齎す。何かに駆り立てられるように、喉の奥から言葉がせり上がってくるのに口にする前にそのほとんどは掻き消えて、狼狽のままに桂は微かに呟いた。

 

「ぎ、ん……」

 

 先刻まであれほどに雄弁だった唇は、今や言葉を失くし震えるばかりで。ぎん、ぎん、と。辛うじて紡いだ二文字だけを幾度も繰り返す。激情に散らされた涙に濡れた手が、ゆっくりと持ち上がり銀時の頬に添えられる。

 

 幾度も血に染まっては傷を負い、この薄い掌がいくつもの命や幸福を奪い或いは取りこぼしてきたことを銀時は知っていた。それでもなおこの手が尊敬する師の教えを、暁を望む同志たちを、己を慕う者たちを護り、剣を取って戦っていることを銀時は知っている。

 

 この手より気高い手を、銀時は知らない。

 

 泣き濡れる頬に押し付けるように、ひんやりとした掌に自分のそれを重ねる。直向きな熱に包み込まれて、細くなった桂の手首が少しだけ震えた。情けないことに涙を止められないけれど、万感の思いを込めて、銀時は目の前の男の名を呼んだ。

 

 罵倒や詫びや悔恨や感謝や愛の言葉の代わりに。

 

「……小太郎」

 

 答えるように、一滴。桂の瞳から涙が零れ落ちた。

 

「ぎ、ん……とき……?」

 

 たった一人の人を表す特別な四文字。

 

「ぎん、とき……銀時……何故、泣く」

 

 あの雨の朝の離別から、どれだけの夜を過ごしただろう。

 

 澄んだ鳶色の瞳が今、まっすぐに銀時だけを映していた。

 

 

後篇へ

 

初出:2014/07/14(pixiv)