心の瞳 後篇

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「一体今年の夏真っ盛りはどこへ行ってしまったというのだ」

 

“戻ってきた”桂だったが、あの時のことを含めいくらか記憶が混濁しているところがあった。

 

「うるせーよ、こっちこそテメーのせいでロクにレジャーも楽しめなかったんだバカヅラ」

「そうか、それはすまなかった」

 

 お決まりの言葉を返すことも忘れ、生真面目に詫びを入れる。ぴんと背筋を伸ばして茶を啜るのを見ていると安心と寂しさと喜びが入り混じった感情で銀時は密かに混乱する。あークソ、と一人毒づいて呷るいちご牛乳はやたらと甘い。

 

 精神の領域は専門外だとぼやきながらも、馴染みの医者はあれこれと手を尽くして調べまわってくれた。強いショックに対する防衛反応で現実を捨て去り眠りについた桂の心は、しかし友の慟哭で僅かに揺り起こされたのだろうと彼は言う。

 

――見りゃわかるだろうがよ、桂さんのそれは不完全なんだよ。

 

 苦い顔をした老医の言葉を、誰よりも銀時自身が実感している。

 

「まあ銀時、夏のレジャーは来年満喫しようではないか。ずっと一緒に過ごしてきたのだ、一年くらい夏の思い出がなくともよかろう。ほら、リーダーと新八君も夏のまざあ牧場でうさぎさんと触れ合いたかろうて」

「……なんでオメーが我が家の夏休みの勘定に入ってんだよ」

 

 まただ。苦い思いが胸の底からせり上がってきて、殆ど残っていないいちご牛乳を呷って干した。

 

 その、晩のこと。早々に眠りに就いた桂を寝室に残し、明かりを絞った食堂で二人は静かに向かいあっていた。

 

「終戦直前ぐらいまでは……ちょっと違和感があるが大体わかってるみてぇだな。それ以降はめちゃくちゃ」

 

 それに、と言いさしてやめた。幼い頃からのお約束ともなっていたやり取りについて言及するのはなんとなく躊躇われて、中途半端に口を噤む。

 

『そうか……こちらの活動にも少しずつ復帰してもらいたいんだが……』

 

 党の会合とやらで朝から外していたエリザベスは半刻ほど前にようやく帰ってきたばかりで、疲れ果てて出涸らしを啜っている。盆に山盛りの甘栗を消費しながら、へたれた字のプラカードを銀時は眺めた。

 

『昨日もな……ああも邪気のない顔で「高杉一派はまだ京か?」と聞かれては……』

「マージでか」

 

 はあぁ、とおっさんくさいため息を吐いたこの天敵に、珍しく銀時は同情した。桂がいくら皆の前に顔を出したがろうとも、そんなとんでもない地雷と化した状態で外に連れ出せるわけもない。甘栗に手を伸ばすことで会話を切り上げたエリザベスが、器用に栗を剥いては口に放り込み始める。

 

 ここからが長いかもしれない、と。黙々と手と口を動かすことで不安を飲み込んでいた。

 

 

 

***

 

 

 

「何の用ネ! 手土産もなく万事屋入ろうとはいい度胸アルナ!!」

「あー……大したモンじゃねえが」

「デパ地下クリーム大福アルぅ!! 新八ィ、とっととお客様に茶ァ淹れるネ!!」

「ちょっと神楽ちゃん、みっともないでしょ! すいません土方さん。とにかく上がってください」

 

 客人に差し出された箱をすぐさま開けて大福を頬張り始める神楽を窘めた新八が彼を万事屋へ招き入れる。気楽な着流しの土方がソファに腰掛けても、銀時は読みたおしてへたれたジャンプから顔を上げすらしなかった。

 

 お持たせですが、と新八が皿に取り分けて置いてくれたクリーム大福にたっぷりマヨネーズをかけて味わう。そのまま一つ食べ切って茶を二回も飲み干して、それでも銀時は来客のほうを見ようともせず、土方もそれを詰るでもない。

 

 根負けしたのは銀時でも土方でもなく、万事屋の従業員だった。

 

「ああもう、なんなんですかアンタらは!? 銀さんはお客様が来たときくらいちゃんとしてください、土方さんも言いたいことがあるならはっきり言う!」

 

 三杯目の茶を卓に叩きつけるようにして新八が低い声で尋ねる。

 

「それで、ご用件は!?」

 

 その勢いに引き摺られるようにして、土方はようやく重たい口を開いた。

 

「万事屋、てめぇどこまで関わってやがる」

「いきなりやってきて何の話かなあ多串くん」

 

 顔を見合わせもしない二人の、静かな探り合い。水っぱらにならないのかな、なんて新八の場違いな心配をよそに、土方はまた茶を啜っている。銀時は巻頭に戻ってジャンプを眺め始めた。

 

「……まぁいい。菱野屋の息がかかった料亭できたねぇ銀髪天パが見つかった時点で、この件におめぇが関わってことははっきりしてんだ」

「誰の毛がきたねぇ白髪陰毛だ」

「誰もそこまで言ってねェだろ」

 

 はぁ、と溜息をついた土方は袂を探って――やめた。乱雑に前髪を掻き上げて腕を組み直す仕草まで、奇妙なほどに様になっていて人目を引く。知り合いの男ぶりを感心して眺めている新八には目もくれず、土方は話を続けた。

 

「ここしばらく、江戸では桂の目撃情報が上がってねぇ」

「へー」

「代わりに西だ。京の各地で“単衣に羽織、うざってえ長髪の男”を見かけたってえ話が入ってくる」

「ほー」

「真選組の中には、桂が京に潜伏してると考えてる奴等もいるがな……どうもそうは思えねぇ」

「ふーん」

「本物の桂は今も江戸にいる。あのヤローも菱野屋の件に首突っ込んでやがったはずだ」

「はぁ」

「……てめぇおちょくってんのか!? しまいにゃ殴っぞ!!」

 

 気のない返事を返しながらも、銀時は内心舌を巻いていた。土方の推理はこうだ。

 

 往時の英雄にして攘夷党の首魁、“桂小太郎”を示すアイコンとも言える長髪や羽織に単衣。それらは全て警察の目を晦ますための策の一つであって、現在京で目撃されている桂は影武者にすぎない。

 

 では本物の桂小太郎はどこにいる? 簡単だ。彼もまたあの事件に関わっていたのだ。でなければあんな不可解な――そして真選組の面目丸潰れな――終わり方をするわけがない。半死半生の男たちも、失踪していたはずの女たちも、一様に口を噤み何も答えはしなかった。

 

「ったく、まずい茶だな」

「文句言うならそんなに飲むなヨ! ウチではその薄い色水が立派な茶アル!!」

 

 淡々と事実を述べる土方に突っかかったのは話題のスイーツを全て平らげた神楽だった。細い人差し指がびしりと土方の鼻面に突きつけられる。その指先に万事屋でとんとお目にかかることのない高額紙幣が一枚かざされた。

 

「こんな出涸らし以下の水じゃ話も碌にできやしねえ。おいガキども、これで茶ァ買って来い」

「なんでワタシらが、」

「釣りで酢こんぶでもバーゲンダッシュでも好きなもん買え」

「パチィ! 出陣アル!!」

「ちょっと、待ってよ神楽ちゃん!」

 

 慌ただしく駆けていった二人の足音が消えれば、室内に重い静寂が落ちて広がる。ようやく煙草を取り出した土方が、苛立ちを飲むように紫煙を燻らせた。

 

 その一本を堪能し切るまでの、長いようで短い時間。変わらず二人ともに沈黙を守っていた。

 

「敵に塩を送ってるわけじゃねえ」

 

 ようやく始まった核心めいた話はのっけから言い訳で、銀時は思わず浮かんだ苦笑を押し殺す――こういうところがこの二人の類似点なのだが、それを指摘するギャラリーは不在だ。

 

「……利益だけで繋がった関係がそれ抜きで保つと思うなよ」

 

 携帯用の灰皿にちびた吸殻をねじ込みながら、土方が警告を吐き捨てる。ジレンマに苛立った低音はそれきりもう続かなくて、再び室内を沈黙が支配した。

 

 空の湯呑を呷ろうとして、軽く舌打ちする。立ち上がった土方の呟きは、溜息まじりのそれだった。

 

「首突っ込んで来るんじゃねェぞ」

「そこまで言うからには敵さんのアジトなんかはわかっちゃってんだろうなあ土方くん」

「……誰がテメーに言うか」

 

 苦虫を噛み潰したような顔が捜査の進捗状況を雄弁に語っていたけれど、銀時はジャンプを開いて見ないふりをする――せめてもの情けだった。

 

 

 

***

 

 

 

 説得の末ようやく万事屋に帰ったかと思えばとんぼ返りの銀時を、どうにも桂は訝っていた。

 

「銀時? お前、しばらくうちへ帰ったんじゃなかったのか」

「ああ、ちょっとな」

「まったく……たまには子どもたちの面倒を見ろと言っておろうに。保護者としての自覚はないのか」

「あいつらはいーんだよ、今日は大人抜きでぎゃーすかやんだから」

「そうかそうかお泊まり会か。子どもはそういったものが好きだからな」

 

 目を細めた桂は何を懐かしがっていたのだろう。相変わらずエリザベスが不在の屋敷で、党首はようやく多少仕事を回してもらえるようになったらしい。い草の香りと番茶の匂い。それに加え室内には龍脳の芳香が漂う。文机に向かいあれこれと書きつける桂はすっかり“桂”だった。それでいてまっすぐ伸びたその背はどこか、非業の死を遂げた彼らの師を思わせる。

 

 あの頃は、木刀ではなく、真剣。身の丈に合わぬそれを後生大事に抱きかかえて、書き物をする師を銀時は見ていた。松陽は振り返らない。細い指先が和紙をめくっては墨を擦り、筆を手に取る。時折長い髪をそっと耳にかける。痩せた背中が決然と、凛と伸ばされていて、幼い銀時はそれを誇らしく思うと同時に泣きたいほどの不安に苛まれたものだった。

 

「あ……」

「銀時。食事にしようか」

 

 そう言って笑ったのは確かに桂のはずなのに。それなのに、恐れにも似た何かが暴れ出しそうになる瞬間、こちらに向き直り微笑む様は丸切り松陽のそれと同じだった。たった一握の尊いものが、掌から零れ落ちていく感覚。その恐ろしさに追い詰められて、銀時は桂をきつく抱きしめていた。腕の中に囚われた桂は身動ぎひとつしない。

 

「銀時、どうした?」

 

 穏やかな優しい――けれど様子のおかしい銀時への心配が隠しきれていない――声が耳を擽る。半ばしがみ付くように強く桂を抱いていたつもりだったのに、気遣わしげな掌にそっと叩かれた腕からは不思議なほどに力が抜けていった。そうして拘束から解放されても、桂は何も尋ねなかった。

 

「先に食堂に行くぞ。食後にはとっておきの羊羹を出してやろう」

「ああ……」

 

 振り返らない背中が消えても、しばしそこを動けずにいた。

 

 呼びにきた党員と連れ立って食堂へ行き、食材は質素だが腕を奮って作られた夕食を口にする。里芋の煮っ転がしに秋刀魚の塩焼き、温野菜と蒸し鶏の胡麻和え、豆腐とわかめの味噌汁、そして茸の炊き込み御飯。元来食が細くしかも今は病み上がりの桂のためにどれほど苦心して作られたか、並べられたものを一目見れば理解できた。

 

「うまいな。誰か三州に知り合いでも?」

「はいっ! うちのカミさんの実家が味噌屋をやってまして」

「そうか。豆味噌もいいものだな。ご内儀によろしく」

 

 一つ一つ、丁寧に味わっては党員たちにあれこれと尋ねる桂は楽しそうだ。党首を慕う男たちも嬉しそうで、楽しげで、銀時はふと戦中を思い出していた。追い詰められ、失い、奪われ、踏み躙られて。明日をも知れぬ戦場で、それでも誰もが少しばかりの微笑みを浮かべるのは、共に食卓を囲むときだった。

 

 同じ釜の飯を食べ、一つ屋根の下に住み、共に生きて最後を看取る。

 

――家族、みてえだったな。

 

 そう振り返って気がつく。“だった”じゃない。桂を敬愛する党員たちは、今はここにいない彼のペットであり相棒でもあるエリザベスは、今でも桂の――寝食を共にし、命を預け合う――家族なのだ。

 

 気づけば胸の内に広がっていたのは、途方もない寂寞だった。

 

 桂を腕に抱き、 情を交わし、二人夜を共にした。けれど夜が明ければ桂は志を共にする者たちの“家族”であり“暁”であり、銀時はそこに立ち入ることを許されない、立ち入ることをやめた街の万事屋だった。

 

「……銀時、どうした? お前はここの芋羊羹が好きだろう、食わんのか」

「あ、いや、悪りぃ……もらうわ」

「なんだ気色が悪い。食うなら食え。いらんと言うならリーダーと新八君に持って帰ってやれ」

 

 珍しく箸が進んだ桂は食後に並べられた梨やら枇杷やら柿にも手をつけている。切り分けられた羊羹を勧める手つきはやはり松陽のそれを思い出させて、銀時の胸をざわつかせた。

 

 

 

***

 

 

 

「銀時、せめてあと少し……この書簡を書き上げるまで、」

「お前のあと少しに付き合ってたら朝になるのは学習済みだっての」

 

 夕食を終え、湯浴みを済ませ、まだまだ文机に向かいたがる桂を強引に床に押し込む。散々文句を言っていたものの、腕っ節で銀時に勝とうとは思っていないらしい。肩までしっかり布団を掛けられれば、桂は観念して力を抜いた。

 

 怪しまれないよう、横に延べた敷布団に銀時も横になる。適当に膝掛けを腹に掛けただけなのを見て、桂はぶつぶつと小言を言っていたが、それもやがて小さくなっていった。

 

「ぎ、ん……ときぃ……」

「なんだよ」

「お……や、すみ……」

 

 ゆらゆら揺れる桂の手が、銀時の頬にぺたりと触れる。眠りの淵に佇んでいる桂の目はどこか頼りない。重たい瞼に抗うように睫毛がふるふると震えて、けれど結局すぐに桂は眠りについた。

 

 どこに不自然な力を入れるでもない、安心して脱力しきったその寝姿に不覚にも涙が零れそうになる。感傷を振り切るように細く長く息を吐いて、銀時はゆっくりと身を起こした。傍の愛刀に手を伸ばしても桂は目覚めない。

 

「ヅラ……おめーの刀、借りてくぜ」

 

 代わりに愛用の木刀を置いて、眠る桂をただ見つめた。その髪や頬に触れることなく立ち上がって、襖の向こうで待つエリザベスのところへ向かう。

 

 後はもう、振り返らなかった。

 

 

 

 明くる朝は早かった。

 

「う……ん、」

 

 戦中から続く気の休まりきらない生活のせいで、桂の睡眠時間は極端に短い。それに加え更にいつもより一刻以上早く目が覚めたのは、やはり虫の知らせゆえかもしれない。

 

「ぎん、とき?」

 

 隣に寝ていた男はいない。珍しく角と角を揃え几帳面に畳まれた布団の傍らに、見慣れた木刀がおいてあった。背筋を駆け抜けた怖気と既視感に、桂は上掛けを跳ねのけて起き上がる。騒々しく雨戸を開け放って見れば、夜明けが間近に迫っていた。

 

「銀時?」

 

 地面から吹き上げられた雪の代わりに、庭では色づいた葉が強風にひらひら舞っては落ちていく。

 

 こんな朝だった。どこまでも空は澄んで雲一つない、つきんと晴れた早朝だった。多くを殺し、多くを護ってきた刀さえ置いて、銀時が姿を消したのは。

 

 また、置いて行かれるのだろうか。どうして。

 

――また?

 

「っう……う、」

 

 割れるように頭が痛んだ。銀時とは幼い時分より共にいた。離れたことなどない、はずだった。覚えのある恐怖と絶望は一体何なのだろうか。

 

 姿を消した銀時を追うために。置き去られた木刀を引っ掴み、桂は一人屋敷を飛び出した。

 

 

 

***

 

 

 

 廃工場の古い油の臭いを覆い隠すように、今や血と死の臭いが充満していた。

 

 ほとぼりが冷めるまで身を潜めていた奥琊のアジトを突き止められたのは偶然ではなく、国家権力には口を閉ざした娘たちからの証言あってのことだった。役に立たない狸どもはもういい。周到に準備を整えて若い女たちを拐かそうとしていた敵のところに二人は飛び込んでいったことになる。

 

 額の汗を拭った銀時がチクショウ、と毒づいたのにエリザベスは内心で同意する。ネズミか黒い何かみてえにわらわらわらわら増えやがってケダモノどもが。死ね。なんて、桂が聞いたら卒倒しそうなことを密かに考えてはプラカードを振り回す。吹っ飛ばされた敵が、銀時の背中に向かっていっていた奴らに激突して、諸共に倒れて三体。それでも敵に痛手を受けた様子はない。斬った分だけ敵が増えていくような気さえして、むしろじわじわと追い詰められていったのは銀時とエリザベスの方だった。

 

 五指を持たないエリザベスの手から、疲労のあまりプラカードが取り落とされる。直様次を繰り出そうとするその隙を奴らが見逃すはずはなかった。銀時が庇いだてしようにも、立ちはだかる敵が多く間に合いそうにない。

 

「っオイ、ペンギン……エリザベス!!」

 

 到底届きそうもない距離から、それでも銀時が懸命に切っ先を差し向けたとき。凶刃を振りかざした敵の喉笛から鈍色の刃が生え、立ち尽くすエリザベスの前から倒れて消えた。

 

 風を切って飛んできたのは一口の懐刀。

 

 くずおれた巨体の向こう、吹き抜けとなっている上階のバルコニーに見慣れた黒髪が靡くのを見て、銀時は殆ど反射的に動いていた。視界の先では手すりに手をかけた桂が逡巡の欠片もなくそれを乗り越えようとしている。

 

「ヅラァ!!」

 

 銀時を一瞥した桂が得心に瞬く。空中で日本刀と木刀が交差したのはほんの一瞬のことで、それらはそのまま本来の持ち主の手に収まった。

 

「……ヅラじゃないっ」

 

 放られた一振り。胼胝も傷も消えない手にするりと馴染んだ愛刀。着地したところに飛び掛かってきた敵を袈裟懸けに斬り棄てたとき、桂の口から飛び出したのは飽きるほどに叫んだ言葉だった。

 

「桂だ!!」

 

 その言葉にげらげら笑い出したのは銀時で、疲弊しきったと思っていた足が敵を思い切り蹴り飛ばしてぶちのめした。ぼろぼろのエリザベスは笑い声こそあげなかったけれど、プラカードに吹き飛ばされた敵は周囲の五人を巻き添えに壁まですっ飛んでいった。満身創痍だったはずの二人が見せた戦いぶりと、新手の凄まじい剣戟に、優勢だったはずの奥琊の者たちは見る間に追い詰められていく。

 

「これでしめぇだな」

 

 ついに大太刀を細腕に叩き折られ、愕然と膝をついた頭領の頚に、桂と銀時は同時に剣先を突き付けた。

 

「同胞を引かせろ。永劫地球の土を踏むな」

 

 有無を言わせぬ絶対零度の声に、傍で見ていたエリザベスですら微かに恐怖を覚えていた。隣に立つ銀時は眉一つ動かさない。

 

「星に侍ある限り、貴様らの居場所はないと思え」

 

 首の皮を削ぐようにして桂の愛刀が引かれたところで、這々の体で生き残った者たちが撤退していく。先導した桂が示した先には、いつの間に呼びつけたのか攘夷党の面々が並んでいて、奥琊の者を即座に囲んだ。腹心がこちらを見たのにはっきりと頷いて見せた桂は、彼らと共に行こうとはしなかった。

 

 残った三人で、言葉なく彼らを見送って。完全に姿が消えたところで、ふらついた桂が膝をつく。

 

「オイどうしたヅラ!?」

「ヅラじゃない桂だ!」

 

 反射的に答えてから激しく噎せる。咳き込む桂に飛びついたエリザベスが慌てて背をさすってやっていた。俺がやろうとしたのに、と口に出して言える銀時ではないのでなけなしの意地をかき集めわざとゆっくり歩み寄る。

 

「お……おかし、い、ぞ銀時っ……エリ、ザ……ス、節々が、い……痛くてっ、あと、息……切れ、」

 

 ぜいぜいと必死に呼吸を繰り返す桂の、弱々しい声に耳を澄ませた銀時とエリザベスはその言葉に肩の力を抜いた。

 

「悠々自適のご隠居生活送ってたくせにいきなり動き回るからだろうが。ったく、余計な心配させやがって」

「ご……ご隠居、じゃ……ない、桂だッ! ……心配、したのか? お前が? 俺を?」

『桂さん……』

 

 いくらなんでも銀時が不憫で、エリザベスですら彼に心底同情した。そして同時に身構える。ンなワケねーだろ馬鹿、と罵る言葉と共に振り上げられる右腕に――流石に今回は庇うつもりはない。

 

「ぎんとき?」

 

 予想した衝撃はいつまでも襲ってこなかった。確かに銀時の手は持ち上げられたのだけれど、それが握りしめられることはなく、固い掌が桂の頬や黒髪にそっと触れる。

 

「あたりめーだろ……桂」

「桂じゃないヅラだ! あっ違った桂でいいんだ。フハハ、そうであろう! よもやお前が俺を心配するなど……え?」

「頼むから黙ってくんねぇ!?」

 

 安堵と怒りと懇願と羞恥の混じった声が滑稽で、聞いているだけのエリザベスがいたたまれない。ちょっと引いているその腕の中から、銀時の胸に居場所を移した桂は困惑にきょとんと眼を丸くした。

 

「何だよほんと! マジでお前は何なんだ、マジでくたばれよマジで!」

「痛い痛いィィィ!! 何だはこちらのセリフだ銀時、骨が砕けるだろうがマジで!!」

 

 恥ずかしくて死にそうです、と顔はおろか真っ赤に染まった首筋にさえ書いてあるようなものだったが、肩筋に顔を押し付けさせられた桂にはそれが見えていない。じたばた暴れる痩せた身体を無理やりに抱き込んで、銀時は艶やかな黒髪に鼻先を埋めた。

 

 

 

 長い秋の夜を持て余すように、静かに酒を干す。湯呑に注いだ安酒を舐めながら欠けた月を眺めていると、物干し台に見慣れた影が立った。

 

「遅かったな」

「ああ、すまなかった……リーダーは?」

「新八とお妙んとこ。確認してから来てんだろ? さっさと入って来て座れよ」

 

 あれから更にひと月が経っていた。銀時のほうも怪我の療養に一週間ほどかかりはしたが、それ以上に桂の怪我が深刻だったからだ。疲労や痛みのリミッターを外されて酷使された病み上がりの身体は、骨や筋が少しばかりおかしくなっていた。それに、服用させられた薬物の後遺症がもう出ないか、それだって定かではない。


 銀時も手負いのところに、そんな状態の桂が来ては万一の際にまるで身動きが取れない。最低限怪我が治るまで会うべきでないと告げたのは銀時のほうだった。

 

「お前、あれからどーしてたの」

 

 銀時の方も慌ただしくしていた。長谷川がわざわざ銀時のもとにまで礼を言いに――結局娘たちは彼の妻を通じて信頼できる奉公先に引き取られていったらしい――来たり、またも真選組――“善意の第三者による通報”を受け廃工場の近辺でふんじばられた奥琊を捕らえたのは結局彼らで、二度までも後手に回ったことを副長は酷く悔しがっていた――が事情聴取に来たり。

 

 ここにきてようやくエリザベスから顛末を聞いた幾松も、ラーメンを差し入れに何度か万事屋に足を運んでいた。全てが解決するまで攘夷党の面々は口を噤んでいたようで、気丈に振舞いつつも心労に窶れた面差しが痛ましかった。

 

「……まぁ、色々とな。今回の件の最終的な処理が主だ。療養とは名ばかりさ、気を使ってくれたお前には悪いが」

 

 道理で疲れた顔をしている、と銀時は思う。厚焼きの湯呑に一杯注いで渡してやると桂は黙したままそれを干した。

 

「銀時。……お前には、迷惑をかけてばかりだ」

 

 迷惑というよりは心配だ、何て即座に反駁しそうになって、余計な口をきかないために再び酒を口に含む。

 

「お前だけではない。リーダーと新八君にも迷惑をかけてしまった。それ、に……幾松、どのには……酷いことをした。詫びて詫び切れるものではない、あんな……」

 

 リーダー、新八君、幾松殿。そして銀時。エリザベスや攘夷党の者たちの名があげられることはない。もちろん律義なこの党首のことだ、きっちりと彼らに頭を下げたろうし、男たちは泣き笑いの奇妙な顔でそれを受け入れたことだろうが。

 

 きっとその詫びの言葉は、こんな風には響かなかったに違いない。

 

「……すまなかった」

 

 こんな、永い別れを告げる挨拶のようには。

 

 身体が怒りに痺れていく。離れて行こうとする桂にも、それを止める権限など持たない自分にも、指先がわななくほどに腹が立った。

 

「そうやって、“余計なモン”振り捨ててお前は生きていくのか」

「銀時、」

「巻き込まねえように、傷つけないように、能面みてぇなツラで身を引いて。腐った世の中を革命するなんざ嘯いて自分たちだけの世界に籠もるのか」

「俺は……」

「肉やら筋やら何もかも削ぎ落として、臓腑を抉って、骨ばっかりになってまで戦うのかって聞いてるんだよ……!」

「……そうだ」

 

 激情を堪えて揺れた銀時の言葉を受け、答えたのは驚くほど凪いだ声だった。

 

「ああそうだ。お前たちには迷惑をかけ通しですまなんだ」

「ふ、ざけんじゃ……」

 

 銀時でさえ、その突き放した響きに激昂しそうになった。

 

「今日はそれだけ言いに来た。リーダーと新八君と、達者で暮らせ」

 

 もし、桂が縋った湯呑が。

 

  そこに注がれていた二杯目の酒が弱々しく震えていなければ、感情のままに殴りつけていたかもしれない。

 

「っ銀時、離さんか!」

「いやだ」

「離せと俺は言っているんだ!」

 

 けれど僅かに落とした視線の先。不安な心を映したかのように水面はうち震えて儚くて、そして何よりも雄弁だった。危険な目に遭わせたくないとか、志を共にせぬ者に何か累が及ばぬようにとか。それは桂を去らせる理由の一つになりえるだろう。けれど銀時は、揺れる水面にもう一つの訳を垣間見た。

 

「自分が汚れてるとでも思ったのか。あるいは俺を騙くらかして裏切ったとでも」

 

 小さく小さく息を飲む音が聞こえた。身体を捩って銀時から逃れようとしていた桂の動きがぴたりと止まる。腕の力を緩め、真正面から対峙する。ひくりと上下する桂の喉の、片手でへし折れそうなほどの細さに胸が詰まった。

 

 そうして明らかになるのは自分の――桂小太郎ではなく、坂田銀時の――脆さだった。

 

 

 

***

 

 

 

「俺は……親なんざ知らねェけど、」

 

 ほとんどが零れた互いの湯呑に酒を注ぎ足して、おもむろに口を開く。

 

 いきなり拘束を解いた銀時を訝るように桂は眉を顰めていた。

 

「一度だけ、“母親”の乳を吸ったことがあんだよ」

「銀時、」

 

 震える声を視線だけで制し、銀時は勢いよく酒を呷った。喉を焼く熱が、これから話すことの重みを紛らせてくれる気がした。

 

「先生と、会うよりも前のことだ」

 

 戦場の鬼と蔑まれていた幼い銀時は、迫害――すなわち生きた人間――から逃れ屍を踏み歩いていた。その時訪れた略奪の限りを尽くされた村にはおよそ生きているものは存在しえないように思えたけれど、そんなことはどうでもいい。僅かな糧のために銀時は死んだ家々を物色して回っていた。

 

 そこで出逢ったのは、息絶えた嬰児を胸に抱いた女だった。

 

 手酷く殴られた顔は倍以上に腫れ上がり最早原型を留めていない。荒ぶる雄の剛腕で毟り取られたのであろう着物の切れ端がほんの少し、辛うじて血塗れの身体に貼りついている。白と赤に濡れた女の部分から、銀時は思わず目を逸らした。戦場で見る曝れ頭や両断された人体よりも更に、胸が悪くなる光景だった。

 

――おなか、すい……て……う、

――ひッ!?

 

 虫の息の女に声を掛けられて肩を跳ねあげる。男の手の形に痣が残る乳房に赤子を懸命に押し付けては語りかけ、女は無心で冷たい我が子をあやしていた。

 

 いいのよ。たんとおあがり、私の坊や。優しい言葉を繰り返す母の腕から、物言わぬ子が転がり落ちる。

 

――坊や、ぼうや……いらっしゃい……ほら、ほら……ぼう、や、あ……

 

 その懸命さに引き寄せられて、子を求め必死に空を掻く腕の中に。知らず銀時は身体を滑り込ませていた。吐息だけで安堵に微笑んだ母が、柔らかく癖のついた白銀の髪を繰り返し撫でては愛おしむ。その指の愛撫に促されるように、裸の胸に唇を寄せた。

 

 吸い上げた乳はほんのりと甘く、それでいて戦場で漂う死の臭いがした。

 

――ねんね、ん……ころ……よ、おこ……り……よ……

 

 破れかぶれの子守唄が終わるまでずっと、“母”の腕に抱かれて。こときれた女の腕に赤子を戻し、銀時はまた一人で歩き始めた。殺された村は残酷な太陽に照りつけられて、死臭を立ち上らせながら干からびていった。

 

 そうやって招き寄せられて人肌に触れたことを皮切りに、とても口に出せないようなこともしてきた。戦に疲れた男たちは、時に高圧的に、時に涙声で縋るように戦場の異端を求めた。幼さゆえにかその地球人離れした容姿ゆえにか身体を求められたことはなかったけれど、そそり立つモノに唇をつけ、びくびくと蠢くそれを口内いっぱいに頬張った。苦く生臭い精を飲み下せば、虚ろな目をした男たちは一握りの糧を銀時に与えたのだった。

 

 生は儚いもので、性は忌むべきもの。血臭に掻き立てられた激情を散らすべく女を抱けど、心はいつだって冷えていた。情交と喜びや幸福は永遠に等号で結ばれるはずがないものだった。そう固く信じていた。

 

 あの晩、桂を腕に抱くまでは。

 

「お前が、もし。汚れているとすれば……俺だって、俺こそが、」

「お前はっ、どこも汚れてなど……」

 

 寄る辺として銀時が握っていた湯呑茶碗に、涙が一雫落ちて混じる。その紅の目から零れ落ちるものが紅玉でないことを、ぼんやりと桂は不思議に思った。引き寄せられるように目尻に残るものに唇を寄せれば、自分のそれと同じ塩辛い味がする。この男のことだから、涙さえ少しは甘い気がしたのに。

 

「……桂」

 

 間近に見た桂の瞳は涙に潤み、けれどその鳶色は奥深くまで澄んでいた。何一つ捨てず。捨てることができずその痩身に桂は背負う。苦しみも悲しみも憎しみも、喜びも幸福も全て。生きてきたときをその内側に封じ込めた琥珀の目。その中心には今、確かに銀時自身が映っている。

 

 誰にも、師にさえも明かしたことのないこの過去すら桂は受け止め、瞳に溶かして秘めてしまうのだろうか。銀時がかつて戦場に振り捨ててきた苦悩と同じように。

 

「俺、は……」

 

“そんな風に抱え込むな”とか、“俺がそばにいる”とか。或いはもっと単純に“離れていかないでくれ”なんて。そんなこと言えた義理じゃないし、唇に乗せることを想像すらできない。けれどそんな銀時の懊悩を全て、隣に腰掛けた桂はきっとわかっているのだろう。

 

「お前と同じ志に生きてはいけねぇ」

 

 言うことができたのはそんな突き放した言葉で、だがそれを聞いて桂はうっすらと微笑んだ。それでいい、安心したとでも言うように。

 

「とうに知っている……俺とて、少なくとも今の俺は、お前のために生きることはできない。死ぬことさえも」

「それこそ今更だ、けどよ……ヅラ、」

 

 言いかけて、迷って、また口を噤んでしまう。普段の口八丁手八丁の雄弁さを思うと滑稽だけれど、それは言葉にすればあまりにも陳腐で、そして哀しいくらい虚しく響いて消えていくだけに思えた。

 

――俺が歩くのは、お前の隣の道だよ。

 

 言葉にならなかった一言を、確かに互いの心が聞いていた。桂は目を伏せて、銀時は髪をゆるりと掻き乱して、それぞれのやり方で杯を干す。ふ、と同時に息を吐いて、先に口を開いたのは銀時だった。

 

「朝になったら、たまにゃのんびり出かけてみっか。……萩、とか、さ。見に行くのも悪くねぇ」

「……そうだな。夜が明けたら」

 

 闇は深く、長く、冷たいけれど。誰もが遠い暁へ。

 

 歩いている。

 

初出:2014/10/10(pixiv)