思い返す


これの続き

 

 

 

 

 隣ですうすうと眠る男を起こさぬよう、そっと寝床を這い出る。始めのうちは身動ぎでもしようものなら飛び起きて幾松を抱きしめたくせに、最近のこいつときたらまあ、随分腑抜けたものだと幾松は思う。

 

 昔の気色悪い寝顔ではない、子どもみたいにあどけないそれ。薄く開いた唇から涎が垂れて枕を濡らしている。誰が洗濯すると思ってんの、なんて小さく毒づいて髪を引いてみても、すっかり寝入った桂は目覚めなかった。

 

 部屋を後にする瞬間、几帳面に畳まれた桂の着流しが目に入る。布と布の間、隠すようにして今日も携えているであろう簪に、幾松はそっと思いを馳せた。

 

 ***

 

 あの雨の晩。満身創痍の少年に差し出したはずの鼈甲細工を再び目にすることになったのは、実はそう昔のことではない。

 

 ようやく取り締まり強化月間も終わり、折りよく行われる江戸城でのイベントに隊士の多くが駆り出されるとかで、久方ぶりに桂が北斗心軒に姿を現したときのことだ。

 

――幾松どの?

 

――すごい、アンタ蝋人形みたいな色してる。

 あまりの顔色の悪さに幾松も度肝を抜かれて、半ば引き摺るようにして彼を二階に閉じ込めた。

 

 それまで鏡すら碌に見なかったのかもしれない。ようやく自分の顔をまじまじと見た桂も、流石に己の不調を悟ったらしい。また来る、とかなんとかもごもご口にして踵を返そうとしてのを襟首引っつかんで布団に叩き込んで寝かしつけて。

 

 無理やり羽織も着流しも剥いて襦袢一枚にしたとき、袂から転がり落ちたのがこれだった。

 

――……ねぇ、アンタ、これ……。

 

 懐かしい簪を手にした瞬間、問いかけの言葉が零れ落ちた。困ったように柳眉を顰めた桂は、きっとそのときにはもう随分と朦朧としていたのだろう。

 

――昔、親切な御仁にいただいたのだ……別に懇ろな関係のおなごからではないぞ……。

 

 ニャンニャンとかしてないからな。チョメチョメとかしてないからな。そう念を押して呟くのは、一般的には逆効果じゃないかと幾松はちらと思う。

 

 それきり意識を飛ばしてしまった桂と、掌の中の一本とを交互に見比べて。

 

 冷たい雨が降りしきる下田。あの日の記憶を心の奥底から取り出した。

 

 暗がりにへたり込んでいた、痩せて傷だらけの身体。血と泥がこびり付いて固まった黒髪。温和な、けれど意志の強い瞳は不衛生な包帯でぐるぐるに巻かれていたし、よく通る美しい声は熱にやられてがさがさだった。

 

 あの時代を生き延びてきた男が、今こうしてここで眠っている。

 

 決して平坦ではなかったであろう、むしろ痛みと苦しみと屈辱に満ちていたであろう道を歩んできた男が、手放すことなく持ち続けてきたものの一つが。

 

 誰のものとも知れぬ、だが売り飛ばせばそこそこの値にはなったであろうこの鼈甲細工なのだった。

 

 ***

 

 静かに階段を下りながら、髪を手櫛で適当に括る。思えば大吾が死んで以来、髪を華美にまとめることなどなくなってしまった。

 

 いつかまた、作務衣を脱いで粋な小袖でも着て。髪を結い上げようと思う日が来るかもしれない。

 

「そのときには返してもらおうかね、アレ」

 

 こんな、奇跡にも似た偶然を知ったら桂は何と言うだろうか。それを思うと気分が良くて、飾り気のないゴムで髪を結びながら幾松は小さく微笑んだ。

 

初出:2015/03/22