邂逅

 幾松が“彼ら”に出会ったのは、こんな梅雨寒のころだった

 後に攘夷戦争と呼ばれる長い戦はいよいよ終焉が近づき、けれどだからこそ死に体の侍たちはせめて自分たちを裏切った幕府に天誅をと命をかけて戦っていた。幾松は主人と二人ようやっと構えて、どうにか常連の一人二人できてきた店を一時畳むことを決めた。そうして彼の故郷に疎開したのは江戸の町が戦火に覆われるのを恐れてのことだ。


 大吾の祖母の生家は伊豆にある。まだまだ矍鑠と働き回る彼女が女将を務めている温泉旅館は、知る人ぞ知る老舗だった。


 若い二人はそんな宿の離れを借りていて、けれど睦事に耽っていられるほど世の中は穏やかでも優しくもなくて、その晩の幾松はどうにも眠れぬ夜を過ごしていた。


 昨晩は煌々と美しかった月は、今晩は厚い雨雲の向こうに姿を隠している。わざわざ起き出して夜着から着替え、行李の羽織を引っ張り出してまで外に出たのは全くの気まぐれにすぎない。自分をそっと抱き込む夫の腕を引き剥がしてでも、今行きたい、行かねばなるまいと思ってしまった。


「冷えるね……」


 どうせ濡れると足袋も履かなかった。高下駄が玉砂利を踏みしめる音が耳につく。思い切って外に出たところで身体は冷えて濡れていくばかりで、余計に気が塞ぐだけだった。何を必死になって、馬鹿らしい。溜め息をついて幾松が踵を返そうとした。そのときだった。


「……誰ッ!?」


 雨に打たれる紫陽花の向こうで、何かが倒れる音がした。犬猫が立てたにしては大きすぎるその音に、十日ほど前に耳にした噂を思い出す。


――下田にある幕府と天人の連合軍基地が襲撃されたらしい。捨て身の奇襲をかけた攘夷軍は善戦虚しく被害甚大、壊滅状態にあるという。


 もしかして、敗走しここに辿り着いた兵なのだろうか。瓦斯灯数本の明かりだけでは繁みの陰は窺えない。驚きと恐怖に荒くなる息を殺し耳をそばだてれば、咲き誇る花の奥からもやはり密やかな吐息が聞こえる気がした。


 恐ろしくない訳ではない。今や賊軍となった攘夷軍の武士の中には、生きるために村々を襲い略奪を繰り返す者もいるのだから。引き返して母屋の人間を呼ぶべきだ。冷静な判断と裏腹に、幾松はゆっくりと紫陽花に歩み寄っていた。


「誰か、いるんでしょう……?」


 途端ぴり、と張りつめた空気を肌で感じる。殺気にも怯えにも似た何かに足が竦みそうになって、震える声で呼びかけた

「大丈夫、人を呼んだりなんかしやしないよ。ただ、もしかして……」


 紫の花々をかき分けた奥にへたり込んでいたのは、幾松の予想通り攘夷軍の侍だった――最も、このみすぼらしい少年二人をそう称していいのかはわからなかったけれど。


「怪我、してるんじゃないかと、思って……」


 途切れ途切れの言葉は尻すぼみになって消えた。痩せぎすで、血と泥に塗れた武具を纏った少年たちは、言葉もなく幾松を見上げている。とは言え一人は両目にぐるぐると薄汚れた布を巻きつけていて、もう一人も左目にやはり赤黒く汚れた包帯を巻いていて、彼女を睨みつけていたのは鶯色の瞳一つだけだった。


「しんすけ」


 折れた刀を手に取り、野生の獣のようにこちらを睨み据える隻眼の少年に、片割れがそっと声をかけた。熱か何かでやられたのだろう、がさがさの声。傷だらけで何枚か爪を失った手が刀を握る手を宥めるように数度叩けば、その手の強張りがゆるゆると溶けていく。両目を覆う少年は耳も満足に聞こえないらしい。しんすけと呼ばれた少年が掌に何事か書付け、それに彼が頭を振って答えることで会話が進められているようだった。


「ねぇ、あんたたち……」


 幾松はそっと、大吾と滞在する離れを仰いだ。彼らより五から十ほど年嵩の主人を思う。恐らくは武家の子であろうこの二人は、今やしがないラーメン屋の夫妻よりも痩せ細って何もかもに事欠いている。戦に負け、国賊として追われ、さりとて逃げることもままならないほどに。


 断られるとわかっていても、声をかけてやらずにはいられなかった。


「ちょっとでいいからあがっていきな。傷の手当ても、」


 隻眼の彼に、皆まで言うなと首を振られる。明確な拒絶はしかし、彼らの心が折れてはいないことを表していた。切っ先を失くした刀を手にゆっくりと立ち上がる。もう一人に手を貸そうとした彼に、幾松は袖を通していた羽織を引っ被せた。満身創痍の仲間を自分の外套で包んでやっているのだろう、血の滲む包帯が巻かれただけの細い腕は見ているだけで寒々しかった。ついでに傘と、袂に入れていた大判の手ぬぐいも押し付ける。


 年相応の幼さを捨てた片目が、それでもぱちぱちと瞬いて、可笑しさと切なさに涙が出そうになった。


「じゃあ早く行った方がいい。雨が上がればこの町でも残党狩りが始まるって噂だ」


 本当は引き摺ってでも屋根の下にいさせてやりたい。風呂に入れてやって、倦んだ傷を洗ってやりたい。薬を塗って包帯を巻き、温かいもの――たとえば、自慢のラーメンとか――を食べさせてやりたい。やわらかい布団に寝かせてやりたい。けれど彼らは決してそれを赦さないだろう。彼らの矜持ゆえ、そして追われる身であるがゆえ。幾松はそれを引き留める言葉や思想や力を持たない、ただの一人の女だった。


 羽織に傘に一枚の手ぬぐい。それ以外、渡してやれるものもない。


 悔しさに俯いた彼女の前で両目を覆った少年がよろよろと立ち上がった。ぐしゃぐしゃに絡まって泥と血に汚れた黒髪が胸に垂らされている。幾松の髪と同じくらいか、或いは少し長いくらいかもしれない。


「これも……。路銀の足しにでもして」


 反射的に少年の手を取って、寝起きにいつもの癖で挿していた簪――嫁入り前に祖母からもらった鼈甲だ――を掌に滑り込ませていた。耳が聞こえないことを失念していたから、一瞬驚かせてしまったけれど。左手に乗せられたものを指先でおもむろに辿り、それから彼は確かに微笑んだ。


「……ありがとう」


 焼けた喉から辛うじて絞られた、吐息のような声。それきり二人は何を言うでもなく、夜の雨に紛れていった。


 気の滅入るような梅雨だと思っていた。けれど今しばらく止んでくれるな。そう強く願いながら、幾松はその背中をいつまでも見送っていた。

 


 これに続きます。

初出:2014/06/23